ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(11)
8 1874年ーーーヌーヴェル三編、あるいは「何が起きたのか?」
・ヌーヴェル〔 中 短編小説〕 を 文学 上 の 一 ジャンルと見るなら、その本質を定義するのはさして困難ではない。「何が起きたの?いったい何が起きたのだろう?」という問いを中心にすえて全体が構成されるとき、ヌーヴェルは生まれるのである。
コント〔 小話〕はヌーヴェルの対極に位置する。〈これから何が起きるのだろう〉という、まったく異質な問いによって読者に緊張を強いるからだ。いつもこれから何かが起こり、何かが行われるのである。
ロマン〔 長編小説〕 の 場合 は、生の恒久的現在(持続)が変移していく中にヌーヴェルとコントの要素を取りこんでいながら、常に現在の時点で何かが起きるようになっている。
・何 かが 起き た、 それ も いくつ もの こと が 継続 的 に 起き た、 そして 答え は 決して 見つからない。このような場合、理解すべき内実を作者がこと細かに作り上げる場合に劣らず、細心の注意と正確さを必要とするのである。
たったいま起きたことが何なのか、それが最後までわからない。これから何が起きるか、それだけはいつもわかる。この二つが、ヌーヴェルそしてコントを読むとき読者に強いられる緊張状態の二つのあり方だが、これは奇しくも、生きた現在時が時刻々に分化する際の二通りのあり方に一致しているのだ。
・ヌーヴェル は、 過去 の 記憶 とも、 反省 の 行為 とも ほとんど 関係 が ない ため、逆に根源的忘却をもとに作動する。ヌーヴェルは「すでに起きたこと」という要素の範囲内で展開するが、それはヌーヴェルがわれわれを不可知のものや知覚しえぬものに関与させるからだ(・・・・)。
・フィッツジェラルド。コントの作家にしてヌーヴェルの作家。ところが、彼がヌーヴェルの作家になるのは、こんな 結果 に なっ て しまっ た けれど、 いったい 何 が 起き た の だろ う と 自問 する とき なの だ。