竹田青嗣著『欲望』第Ⅰ巻「意味」の原理論を読む(10)
第一部 存在と認識
第二章 認識の謎
第9節 普遍主義の再興
二十八 「本体」の観念
「本体」の探求はギリシャ以来ヨーロッパ哲学を貫く中心主題でありつづけた。この観念はヨーロッパにおいては二つの契機によってたえず強化されつづけてきた。
第一に、キリスト教の絶対一神論。
第二に、近代の物理学的合理主義の台頭による「絶対的実体として実在する世界の全体」という観念
カントはプラトンの「イデア」を近代的な「理念」の本質において、すなわち自由な個人の内的な世界意識の本質として再解釈し、ヘーゲルはアリストテレスにおける一切の知と認識の総攬と統轄の方法を、弁証法と絶対精神という新しい汎神論的独創によって再構築しようとした。そしてこの普遍認識の可能性を求める二人の哲学者のうちに、ヨーロッパの「本体」の観念は最も重要な位置を占めることになる。
二十九 カントと物自体
一切の存在の根拠である神が消去されたとき何が可能の世界像として残りうるか。注目すべきは、カントの「物自体」は二重の世界概念を含むということ、すなわち自然世界の全体性と世界の意味ー価値の総体性という二つの概念の統一体という点である。
カントの「物自体」とは何か?
東浩紀は『存在論的、郵便物』において、現代思想の中心議論が「不可能なもの」をめぐることを指摘する。
デリダは「思考不可能なもの」を思考するが、この思想はハイデガーが開始したものである。ハイデガーは「否定神学的」な話法によってこれを考えたが、ラカン思想はフロイトのハイデガーだったといえる、と。
三十 ヘーゲルーーー運動する精神
ヘーゲルは、認識論において、次の二つの原理を発見した。
第一に、錦論のおける時間契機の導入。
第二に、認識の運動における目的論的問題構成。
ヘーゲルにおける認識の時間契機の観点は、次のような本質的洞察から現われる。すなわち、主観は自らの意識のうちにどんな根源的、始元的要素も見出すことはできず、意識のうちに見出されるものは必ずすでにいわば”先構成”される。この先構成の構造は時間性の展開としてとらえねばならない。
『精神現象学』において、世界の経験が意識、自己意識、理性、精神という時間的生成の構造において記述されるのはその理由による。
ヘーゲルの哲学体系において、世界の存在の根源は、無限の運動(否定性)をその本性としてもつ精神的原理であり、「存在」 ⇒「本質」 ⇒「概念」⇒「理念」という展開の階梯を通して運動を持続する。
三十一 目的論的モデル(樹木のモデル)
認識に時間契機を導入するや以下のことが問題となる。
樹樹は種子から生育する。
芽を出し若木となり葉を茂らせて成長し、果実を実らせる。
この存在者が特定の観察の局面で表す形状や質の束は、樹木の「何であるか」の一現象面にすぎない。
樹木の「何であるか」(本質)は、樹木の自立的な生成変化の総体をもとらすもの、その「根本動因」の認識でなければならない。
すなわち、その内在的本性において自らを展開するような存在者は、それが時々に現わす諸性質やその形式生として把握することはもたない。
かくして、人間の存在や社会の存在の本質の認識といわれるべきものは、歴史的、社会的な生成変化の総体を支えるその「根本動因」の認識でなければならない。
アリストテレスがおいた「可能態」と「現実態」という生成の契機は、ヘーゲルにおいては、一方では「真理」「本質」「概念」「理念」という「実体」の運動の体系となり、もう一方では、「意識」「自己意識」「理性」「精神」「宗教」「絶対知」という「主体」の運動の体系へと再編成される。