ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(19)
11 1837年ーーーリトルネロについて
I 暗闇 に 幼 な 児 が ひとり。 恐く ても、 小声 で 歌 を うたえ ば 安心 だ。 子供 は 歌 に 導か れて歩き、立ちとまる。道に迷っても。なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先へ進んでいく。
歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。
だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから飛び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしあうかもしれぬという危険もあるのだ。
II 逆に、今度はわが家にいる。もっとも、あらかじめわが家が存在するわけではない。わが家を得るには、もろくて不確実な中心を囲んで輪を描き、境界のはっきりした空間を整えなければならないからである。
あらゆる種類の目印や符号など、きわめて多様な成分が介入してくる。これは第一の場合についても当てはまることだ。けれども、ここで問題になる成分は、一つの空間を整えることを目指しえいるのであり、もはや一時的に中心を定めることを目指しているのではない。
こうして、カオスの諸力ができるかぎり外部に引きとめられ、内側の空間が、果たすべき務めの、あるいはなすべき事業の胚種となる諸力を保護するにいたる。
ここでは選別、排除、抽出の活動がくりひろげられ、それによって大地の内密な諸力、大地の内部にある諸力が、埋没することなく対抗し、さらに、成立した空間のフィルターやふるいでカオスを選別して、カオスから何かを取り入れることもできるようになる。
III さて、今度は輪を半開きにして開放し、誰かを中に入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分が外に出ていき、駆け出す。輪を開く場所は、カオス本来の力が押し寄せてくる側ではなく、輪そのものによって作られたもう一つの領域にある。
それはあたかも輪そのものが、みずからの内部に収容した活動状態の力と連動して、未来に向けて自分を開こうとしているかのようだ。
そして、いま 目的 と なっ て いる のは 未来 の 力 や 宇宙 的 な 力 に 合流 する こと なので ある。 身 を 投げ出し、 あえて 即興 を 試みる。 だが、 即興 する こと は、 世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。
ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作や音響の線に、「放浪の線」が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる。
リトルネロ とは テリトリー を 示す もの で あり、 領土 性 の アレンジメント だ という こと。 たとえば 鳥 の 歌。 鳥 は 歌 を うたう ことによって自分のテリトリーを示す・・・・。
ギリシャ音楽の施法も、インド音楽のリズムも、それ自体領土的で、地方、地域を示す。リトルネロはこれ以外にもさまざまな機能をもつことがある。
だが、恋愛の機能、職業的な、あるいは社会的な機能、さらに典礼や宇宙に関する機能など、どれをとってみても、リトルネロは必ず大地の一部をともない、たとえそれが精神的な意味の大地であったとしても、常に一つの大地を相伴物としてもつ。 リトルネロは、本質的に、〈生まれ故郷〉や〈生来のもの〉に関係しているのだ。