ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(10)
7 零年ーーー顔貌性
脱領土化の定理、もしくは機械状の命題
・第一の定理
脱領土化は決して単独では行わなわれず、少なくとも 二つ の 項、 手-使用 対象、 口-乳房、 顔-風景 を ともなう。 この 二項 の 一方 は 他方 において 再領土化する。したがって、この再領土化は、原始的あるいは古代的領土性への回帰とは区別されねばならない。
・第二の定理
脱領土化の二つの要素もしくは二つの運動のうち、必ずしも速いものがより強度であり、より脱領土化されているとは言えない。脱領土化の強度は、運動または発展の速度と区別されねばならない。
したがって、最も速い運動の強度が最も遅い運動の強度に連結されるとき、遅い 方 の 強度 は、 強度 として 速い 方 の 強度 に対して 遅れ て いる のでは なく、 同時に 異なる地層または異なる平面で作用するのである。こうして乳房ー口の関係はすでに顔貌性の平面に向かっているのだ。
・第三の定理
これによって、脱領土化の度合の最も低いものが、その度合の最も高いものにおいて再領土化するという帰結さえ生じうる。再領土化の第二のシステム、下から上への、垂直的な再領土化システムがここに現れる。だからこそ、口 だけで なく、 乳房、 手、 身体 全体、 道具 さえもが「 顔貌 化」 さ れる ので ある。
・第四の定理
だから、抽象 機械 は 単に それ が 産出 する 顔 において 現実 化 する だけで なく、 ある 根拠 秩序 に したがっ て( 類似 による組織化ではなく)それが顔貌化する身体、衣服、事物のさまざまな部分において、さまざまな度合で現実化されるのだ。
・ここ で 肝心 なのは 顔 の 個体 性 では なく、 顔 が 可能 に する 数的 操作 の 有効 性 で あり、 それがどんな場合に可能かということである。これはイデオロギーにかかわる問題ではなく、権力の経済と組織化の問題なのだ。
はっきり言っておくが、顔や顔の力能が権力を生み、権力を説明するのではない。反対に一定の権力のアレンジメントが顔の生産を必要とするのであり、それを必要としない場合もあるのだ。
・情報理論 は 既成 の 意味 的 な メッセージ から なる 均質 な 集合 を 前提 と し て いる。 この メッセージ群は、すでに一対一対応関係の中に要素として取り込まれている。あるいはその要素は、一つのメッセージから次のメッセージへと一対一対応関係にしたがって組織される。
第二に、組み合わせの抽出は主体的な二項的選択の数に依存するが、その数は集合要素の数に比例して増加する。だが問題なのは、このような一対一対応化、二項化はすべて(よく言われるように単に計算をもっと簡易化するためではなく)、あらかじめ壁またはスクリーンが広がっていること、コンピュータととして中心のホールが設置されていることを前提にしていることであり、この二つなしでは、どんなメッセージも識別できず、どんな選択も実行不能になるだろう。
・言語 は つねに、 その 言 表 を 告げる さまざま な 顔 の 中 に 取り込ま れ、 流通しているシニフィアンや関連する主体にしたがって言表を満たすさまざまな顔の中に取り込まれている。
まさに顔の上で選択が誘導され、諸要素が組織されるのだ。一般的な文法は顔の教育と決して切り離せない。顔とはまさに声を運ぶメガホンなのだ。
・ところが、 人間的、 精神的、 原始的 な 頭部 を 非 人間 的 な 顔 に 対立 さ せ て い た とき、われわれは回帰または後退のノスタルジーに陥っていたのだ。
本当は、いくつかの非人間性があるだけなのだ。人間はただ非人間性でのみ作られている。ただしこれらの非人間性は非常に異なったものであり、それぞれ性格を異にし、まったく異なる速度をもっている。
原始的な非人間性、顔以前の非人間性とは、記号系の多義性そのものであり、この記号系は頭部を身体に、つまり相対的に脱領土化された身体に所属させ、〈精神的、動物的になること〉と接続する。
顔を超えた彼方にも、もう一つの別の非人間性がある。もはや原始的な頭部の非人間性ではなく「自動誘導弾頭」の非人間性であり、脱領土化の先端は操作的となり、脱領土化の線は肯定的かつ絶対的となり、奇妙な新しい〈生成変化〉、新たな多義性を形成する。
秘密になること、いたるところにリゾームを作ること、創造すべき非人間的生の驚異を目指して。私の愛しい顔よ。しかしいつのまにか、もうそれは自動誘導弾頭になっている・・・・。
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