空海が考える国家
ヘーゲルは、国家は「自由の現実態」であると断言している。どういうことかを、苫野一徳氏は次のように説明している。
国家は法・教育・福祉の三領域において各人の「自由」を「自由の相互承認」の原理のもとに保障する、と苫野氏は述べている。
家族や市民社会(市場)だけでは十分に実質化し得ない「自由の相互承認」を、国家が底から支えるのだ、というわけです。
国家の存在理由は、「自由の相互承認」を最も根底的に支え、そしてそのことで各人の「自由」を現実のものにするところにある、と言う。
一方、空海は国家の在り方を次のように語っています。
空海が生きていた時代から約1300年後の現在、コロナ禍で、国民が塗炭の苦しみを味わったが、「国家は、国民を救うためのものである」ということを、強欲な国のトップの連中は、口が裂けても言えないだろう。今どころか、過去にも無かったし、未来にもありそうにない。
衆議院選挙にしても、今回のアメリカ大統領選挙にしても、空海が言う「万人 を 塗炭 の 苦しみ から 救う ため」という視点に欠けていることに国民の不満が爆発した結果が投票行動に表れたように思えます。
苫野氏が説明する国家の存在意味も理解はできるが、「自由」や「自由の相互承認」を得る以前の問題として、生きのびることができるか否かの問題があると思います。それは福祉の領域でカバーできるのでしょうが、福祉に含めてしまうと「生きるか死ぬか」の瀬戸際にいる人々が取り残されてしまうような気がしてならない。
こうしたことは、頭の中でこねくりまわして考えているわけではなく、現実世界で生きていて実際に感じていることです。すぐにではないにしても、近い将来には、飢え死にしてしまうのではということを想像します。
国民民主党代表の「尊厳死」発言や成田祐輔氏の「集団自決」発言などを見聞すると、身につまされます。働く能力がなくなった老人を「姨捨山」に捨てるという伝説と同様なことが、堂々と広言されているのです。バブルが弾けて約30年、ここまで、国家経済が縮小してきたということでしょう。というよりも、防衛費に回す予算を鑑みると、国民を救う余裕などはないということでしょうか?