「愛」も煩悩なのか?
釈迦の教えでは、煩悩を抹消することが重要視されています。その煩悩には108個、いや、それ以上あると言われていて、例えば、強欲、傲慢、嫉妬、貪欲、愚痴、恨みなど数え上げるときりがないほどです。
釈迦は、その中で親分格となるのが「無明」だと考えています。
無明のせいでものごとを正しく認識できないために、老いや死への恐れ、苦しみが生じるというというわけです。
この無明の子分として、「愛」も含まれています。われわれは愛には美しいイメージしかありませんが、仏教では必ずしもよい意味ではなく、色欲や所有欲などに結びつく煩悩としての側面が大きいのです。
恋人同士や夫婦で喧嘩や別れが絶えないのは、所有欲や嫉妬で「がんじがらめ」となって、精神的にも疲れ果てた結果と言えるのでしょうね。
かといって、別れずに、持続していたからといってそれが素晴らしいということでもない。子どもが大きくなるまでとか、別れると世間体が悪いや、経済的な理由などの煩悩に捉われた結果だということもあります。
その点では、「般若心経」はおおらかです。何しろ、釈迦が説いた「無明」なんかないのだ、「無無明」なのだ、と唱えているのですから。さらに、老いも死もない、「無老死」ですので、写経なり、唱えていると、気持ちが落ちつきます。
勿論、生物学的には、老死があるのは分かりきっていますが、気持ちを落ちつかせることが目的ですからこれでいいのです。
最後に、羯諦羯諦(ぎゃーていぎゃーてい)と呪うと、これだけで悟りの道へと導かれるということですが、こんな都合のよい、厚かましいことは望むべくもありません。
noteで相互フォローしている住職の方が、座禅より「般若心経」を写経している時が集中できると投稿されていました。まさかとは思いますが、「般若心経」の写経を始めたての者としては心強いお言葉です。