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「愛」も煩悩なのか?

釈迦の教えでは、煩悩を抹消することが重要視されています。その煩悩には108個、いや、それ以上あると言われていて、例えば、強欲、傲慢、嫉妬、貪欲、愚痴、恨みなど数え上げるときりがないほどです。

釈迦は、その中で親分格となるのが「無明」だと考えています。

この「無明」という言葉は、日本人にはなじみの薄い言葉ですが、ニカーヤを重んずる南方仏教国の人たちにとっては全くの常識、基本中の基本です。「明」という単語は智慧という意味なので、「無明」といえば「その智慧がない」ということ、つまり「愚かさ」を意味します。「愚かさこそが諸悪の根源」、「煩悩の親分」というわけです。

 ただし「愚かさ」といっても、それはたんに知識が足りないとか、学がないといった表層的な意味ではありません。ものごとを正しく、合理的に考える力が欠如しているという本質的な暗愚を指します。

佐々木 閑. NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば NHK「100分de名著」ブックス (p.43). NHK出版. Kindle 版.

無明のせいでものごとを正しく認識できないために、老いや死への恐れ、苦しみが生じるというというわけです。

この無明の子分として、「愛」も含まれています。われわれは愛には美しいイメージしかありませんが、仏教では必ずしもよい意味ではなく、色欲や所有欲などに結びつく煩悩としての側面が大きいのです。

慈愛や仁愛という意味で、他者の幸せを願うぶんにはいいのですが、相手をこちらへ振り向かせたいとか、相手の気持ちが他へ向かぬようにしたいなどと思ったら、それはもう煩悩です。それがかなわぬと、もっと苦しい嫉妬という感情が起こり、「がんじがらめ」になるのです。

佐々木 閑. NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば NHK「100分de名著」ブックス (p.47). NHK出版. Kindle 版.

恋人同士や夫婦で喧嘩や別れが絶えないのは、所有欲や嫉妬で「がんじがらめ」となって、精神的にも疲れ果てた結果と言えるのでしょうね。

かといって、別れずに、持続していたからといってそれが素晴らしいということでもない。子どもが大きくなるまでとか、別れると世間体が悪いや、経済的な理由などの煩悩に捉われた結果だということもあります。

その点では、「般若心経」はおおらかです。何しろ、釈迦が説いた「無明」なんかないのだ、「無無明」なのだ、と唱えているのですから。さらに、老いも死もない、「無老死」ですので、写経なり、唱えていると、気持ちが落ちつきます。

勿論、生物学的には、老死があるのは分かりきっていますが、気持ちを落ちつかせることが目的ですからこれでいいのです。

最後に、羯諦羯諦(ぎゃーていぎゃーてい)と呪うと、これだけで悟りの道へと導かれるということですが、こんな都合のよい、厚かましいことは望むべくもありません。

noteで相互フォローしている住職の方が、座禅より「般若心経」を写経している時が集中できると投稿されていました。まさかとは思いますが、「般若心経」の写経を始めたての者としては心強いお言葉です。





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