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竹田青嗣著『欲望論』第Ⅰ巻「意味」の原理論を読む(1)
序文ーーー「一切の哲学的原理の、総転回の試み」
1 哲学と普遍戦争
他の動物と違い、人間だけが、同類の「普遍戦争」をたえず行っており、それは現在でも、ロシアーウクライナ、イスラエルーパレスチナ、さらにイスラエルと他の地域(イラン、レバノン、シリア)へと拡大しつつあり、第三次世界戦争への危険性さえ叫ばれている。
そして、中国、台湾へと拡大させたい勢力がチラチラとアメリカに煽られているのが日本にもいる。
戦争は、人間社会におけるすべての人間的価値を無化にする。
しかし、いかにして「戦争」を避けうるのか?
今だに、戦争が勃発しているということは、人類は戦争を克服する方途を見出すことはできていないということになる。
巨大な統治と権力なしには人間は「戦争」を抑制しておくことができない。
ここから一切の人間の努力は出発していると竹田は言う。
宗教と哲学は、人間の集合的生における公共的「言語ゲーム」として成立した。宗教は最も古く、人間社会における始元的な世界像、すなわち集合的世界説話を形成する。哲学がそれに続き、始元的な世界概念を形成した。
なぜ人間は言語による世界創出を試みたのか?
それは、世界の全体的輪郭を所有したという人間の観念的欲望のみに帰することはできず、むしろ「戦争の威力」 「普遍暴力」がもたらす大きな「不安」に対する集合的対抗ということと深くかかわっている、と言うのです。
宗教の世界説話は「普遍暴力」への対抗とし編み出されたはじめの「言語ゲーム」であり、じっさい宗教は、人間社会において、普遍暴力に対抗しこれを抑制する上で大きな役割を果たしてきた。
宗教を非合理的な集合的思考として定義するのは、われわれの時代からの事後的な了解にすぎない、と述べている。
宗教におくれて哲学の言語ゲームが登場する。方法として、宗教は「物語」(寓話ー説話)で行うが、哲学は「原理」(概念の展開)で行う。歴史的には、「原理」の方法は、「物語」の方法がさまざまな信念対立を生み出して適切に機能しなくなるときに重要な役割を果たす。じっさい、宗教は、カトリックとプロテスタントとが常に対抗していた。
レヴィナスは道徳こそ戦争に対抗しうるものとしたが、道徳それ自体には戦争に対抗する力をもたない、と竹田は言う。
むしろ、「戦争」の現実論理に対抗させられねばならないのは、ハンナ・アーレントのいう人間的「活動」としての政治、すなわちいかに戦争を抑制し共生のシステムを構成するかという言葉の営みとしての政治の思想でないだろうか、というわけです。
しかし、現在のイスラエルのように、発狂的に、どの国かまわず攻撃をしまっくている様を見ていると、言葉は全く無力のように感じてしまう。
古来、哲学の問いの中心には世界とは何であるか、世界を正しく認識できるかという問いが、すなわち「存在の問い」と「認識の問い」であり、この問いの根底には、いかに善き生を生きうるかという問いとともに、いかに人間が潜在的な暴力の不安から逃れうるかという問いが潜んでいる。
哲学の問いの底には、人間が赤裸々な「現実の論理」といかに対抗しうるかという課題が潜んでいることを忘れるなら、それは単なる論理上のパズルに帰着する。
こういう観点からすると、やたらとひねくりまわし、こねくりまわした表現が目立つ現在の哲学は、ただの論理上のパズルで遊んでいるだけということになるのか!
近代哲学における「存在の問題」と「認識の問題」は、一見「普遍暴力」を抑制し、「普遍支配」からの人間の解放しうるかという点に中心課題があるように見えないとしても、その根底にはこの課題を抱えていることを、現代哲学と現代思想においては忘却されている、と竹田は力説する。
「近代」という哲学的「原理」とその「現実」を混同するという誤解が存在している。
というのは、現代哲学(思想)は、近代哲学が探求した哲学原理を吟味せず、その社会的「現実」に注目してこれを批判することを重視したから、というのです。
現代哲学(思想)はその根本方法としてむしろ批判的相対主義を選び取り、哲学の「原理」の方法は、忌避され廃棄されるべきものとみなされた。その結果、哲学の言説は本質的に対抗すべき真の対象を見失ったのである。
現代哲学は、「現実論理」に対抗してこれを克服する「原理」ではなく、一方で「理想」を対立させる言説となり、他方で、一切のものについての批判のための批判の言語ゲームとなった。哲学の思考は、ここで普遍的な思考であるための正当性の根拠を見失った。
2本体の解体と現代思想
カンタン・メイヤスーは『有限性の後で』は、長く続いたポストモダン的批判思想の席巻の後にようやく到来した、社会批判の正当性とその根拠を求める新しい思想世代の登場を象徴している。
だが、竹田は、メイヤスーが社会的批判の正当性の新しい根拠を作りだそうとするその動機は、哲学的にきわめて真摯であり、かつ正当であるが、その上で、われわれは、思想の「正当性」の根拠を新しい実在的「本体」(実在としての世界の本体)に求めるメイヤスーの試みは、原理的に不可能であり挫折の運命を免れない、と考える。
問題の核心はどこにあるのか?
それは、認識の「普遍性」の根拠の問題をいかに哲学的に解明しうるかという問いのうちにある、と言うのです。
現代思想の推論では、20世紀の前半、マルクス主義と全体主義の二つの原理主義的思想は、ドイツ観念論が代表するヨーロッパの汎神論哲学(=形而上学)の負の遺産であり、これを根底的に顛倒することなくして思想は新しい地平に進み出ることはできない、と考えられた。
しかし現代思想は、形而上学批判という課題を、伝統的な懐疑論=哲学的相対主義の論理によって遂行するという道をとった。このことで、現代の批判思想は、形而上学的、独断的普遍主義に対抗する批判的相対主義というい、決して答えの見出せない哲学的な袋小路に入り込むことになった。
哲学の認識が、形而上学的独断論と対抗的懐疑主義・相対主義の対立に落ち込むとき、哲学の「原理」の思考は停滞し、人間は「普遍闘争」「普遍競合」の現実性の論理に対抗する方途を失う、と言う。
じっさい、現在勃発している戦争に対して、哲学的な対抗は何もしていないように見える。
哲学は「普遍的認識」をこととするが、この「認識の普遍性」の概念が「本体」(絶対の真理)の観念に結びついているかぎり、すべての哲学的試みは認識論上の迷宮に入り込む、と言う。
「本体論」と「相対主義」を解体することが必要となる。
まず、相対主義ついて、竹田はその方法を、ゴルギアス・テーゼと呼んで次のように総括する。古代ギリシアの相対主義者、ゴルギアスによって示された3つのテーゼだ。
(1)およそ何も存在しえない。あるいは存在は証明されない。
(2)万一存在があるとしても、決して認識されない。
(3)万一存在が認識されたとしても、決して言語されえない。
ゴルギアス・テーゼこそは、ヨーロッパ哲学を通して存続するすべての懐疑論=相対主義の論理的原理を体現するものであり、その後現われた一切の懐疑主義、相対主義思想(ポストモダン思想・現代分析哲学含む)の源泉である、と竹田は言う。
ニーチェの「力の思想」はヨーロッパ哲学における世界の「本体」の観念に対する一撃であったが、このため、現代思想においてニーチェの思想は「相対主義思想」の強力な後ろ盾とされた。しかし、これこそが、ゴルギアス・テーゼの難問の克服の端緒を開いた、と言う。
ニーチェによる「本体」の解体の大きな哲学的功績の意味を、その相対主義的仮象から解き放って、むしろ認識論の謎の完全な解明にまで推し進めたのは、フッサール現象学の決定的達成であった。しかしニーチェとフッサールの哲学的達成は、現代哲学(思想)においてはほとんど正当に理解されていない。
本体の解体は、なにより独断的客観主義と相対主義思想の対立を終焉させ、このことによって哲学の思考は再び「普遍暴力」の原理に対抗する「原理」の集合的創出の言語ゲームとしての本質的な生命力を取り戻す、と言うのです。
3欲望と価値の哲学
哲学における最も重要な「認識論的転回」であるニーチェの「力相関性」は、「世界」は、生き物の身体ー欲望に相関的な多様としてのみ「生成」すると主張する。またそれゆえ「それ自体のもの」すなわち「本体」を想定することはできず、想定する必要のないと主張する。ここにゴルギアス・テーゼを乗り越え、これを棄却してなおかつ「存在それ自体」の不可能性を証明する新しい認識論が姿を現わす。
「認識」の問題を、本体認識の観念から切り離し、個々の「世界体験」(主観的構成)から間主観的問題構成へと展開し、そのことで世界存在の共通性、客観性、普遍性の構造を理解する方法を与えたのはフッサール現象学である。
フッサール現象学は一切の認識を「確信形成」(「超越」の内的形成)の構造として解明し、そのことで認識の「普遍性」の概念を伝統的な「本体認識」の観念と完全に分離したかたちで理解することを可能にする。
「本体」観念の解体のあとに現れるのは何であろうか?
ヨーロッパでは、「本体」の認識の困難が認識論的推論をおし進め、どんな認識も不可能であるとさえるところまで進んだとき、最後に「言語の謎」が現われる。すなわち「言語論的転回」という、最後の「真理への意志」が登場する。
現代言語学は「世界」の本体論を「意味」の本体論へと転移するが、このことによって「本体」の解体も認識問題の解明も完全にその可能性を閉ざされる。
形而上学的独断論と懐疑論=相対主義の対立は、この領域では、言語的「意味」の規定可能性と不可能性の背理として延命させられる。「自己言及」 「決定不可能性」 「語りえぬもの」といった概念は、現代言語哲学における本体の探求の挫折の標識となる。
人間世界が「言語ゲーム」として形成されていることの根本的意味は、これを追いつめるなら「暴力原理の縮減」という点にある。
言語ゲームの世界だけが、「よいーわるい」 「善悪」の価値審級を生成しうる。この価値審級の秩序は、露出しようとする暴力原理に、すなわち「戦争の論理」(あるいは不安競合の論理)にたえず対抗しつつこれとせめぎあうのである。
認識問題、言語問題の核心点は、人間が社会の中で形成するさまざまな善悪、正義―不正義、さらに法や政治権限などについて、その妥当性と正当性、その普遍性の根拠を創設する、という点にある。
われわれの世界に現われ出ているさまざまな信念対立、宗教、主義、思想信条、道徳的、政治的諸理念などの対立は、思想がその妥当性、正当性、普遍性の根拠をどこにも見出しえないことから現われている。
だが、ひとたび戦争が生じれば、人間世界に理性と合理を求める言説は力はねじ伏せられる。だから、世界が戦争による「現実の論理」の覆われないときにこそ、哲学は「現実論理」に対抗し、「平和」や「道徳」の生きうる世界の原理を模索することができる、と竹田は言う。
現実の日本社会は、模索するどころか、まず戦争ありきで、防衛費を爆上げし放題で、防御どころか攻撃能力を高めようと必死になっていて、まるで戦争状態にあるかのようななのが現状です。しかもその防衛費なるものの実体は、アメリカ兵器の格下なもので使えるかどうか疑問視されているものが大半だという物の費用だというのですから、話しになりません。