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ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』読書メモ(1)
2 1914年ーー狼はただ一匹か数匹か?
・フロイトの言うには、ヒステリー患者や妄想患者は、例えば靴下を膣に、傷痕を去勢に、まるごとなぞらえることができる連中である。おそらく彼らは、対象を同時に全体として、しかも失われたものとしてエロティックに把握しているのである。しかし皮膚を、毛孔、小さな点、小さな傷痕、あるいは小さな穴の多様体としてエロティックに捉えること、靴下を編み目の多様体としてエロティックに捉えること、これこそは、神経症患者が思いつかないことで、精神病患者にだけ可能なことである。
・靴下を膣に比べること、それはまだいい。それは毎日みんながしていることだ。しかし、単なる編み目の集まりを膣の局部と比べること、それはやはり狂気めいたことだ。フロイトはそう言う。ここにはたいへん重要な臨床的発見がある。
・神経症患者は事物の表象にしたがって比較や同一化を行うのに、精神病患者は言語の表象しかもたない(たとえば、穴という言葉)とフロイトは言う。「代替物の選択を決定したのは、言語表現の同一性であって、物体のあいだの相似性ではない。」こうして事物の統一性はなくても、少なくても言語の統一性、同一性は存在する。
・われわれは、樹木状の多様体とリゾーム状の多様体を区別することによって、これとほとんど同じことをしている。マクロな多様体とミクロな多様体。一方には外延的で分割可能でモル状の、統一化可能、全体化可能、組織化可能な、意識的または前意識的な多様体ーーそして他方には、リビドー的、無意識的、分子的、強度〔内包〕的な、性質が変化することなしに分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる多様体。
これらの距離は、もう一つの多様体の中に入り込むとき、はじめて変化し、一つの閾の内部で、あるいは向こう側で、あるいは手前で、互いに交流し移行し合いながら、たえず形成されては、解体されるのである。
・群れや徒党のリーダーは、一手一手の勝負を賭ける、つまり彼は一手打つたびに新たに賭け直さねばならないのだ。これに対して団体や群衆のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資本化するのである。
・「社交性」は「社会性」と区別されるものである。なぜなら「社交性」はより群れに近いからだ。そして社会的人間は、社交的人間に対してある種の羨望を含んだ、誤ったイメージを抱いている。彼は、社交的人間に固有の立場や階層性、さまざまな力関係、実に特殊な野心やもくろみを見くびっているからだ。社交的な関係は決して社会的関係と重なり合わない、両者は決して一致しないのだ。
・したがって、前意識にモル状多様体あるいは群集機械を帰属させ、無意識の方には、別の種類の機械や多様体をあてるだけでは十分ではない。なぜなら、いずれにしても無意識に属するものは、二つのアレンジメントであり、前者が後者を条件づける仕方、また後者が前者を準備し、あるいはそこから逃れ、あるいはそこに復帰する仕方だからである。
・誰かを愛するとは、いったいどんなことを意味するのだろうか?それは、つねにその人を一個の群集の中で把握すること、その人が加わっている一つのグループから、たとえ家族などのようにかぎられたグループからでもその人を抽出することだ。
・個人的な言表というものはない。そんなものは決して存在しないのだ。あらゆる言表は、一つの機械的アレンジメントの、つまり言表行為の集団的な動作主の産物である。
・固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包括〕された純粋な不定法の主体なのだ。