ジル・ドゥルーズ著『ザッヘル=マゾッホ紹介』(16) 読書メモ
死の本能とはなにか①
フロイト の あらゆる テクスト の なか でも、 傑作『 快 原理 の 彼岸』はおそらく、フロイトが類いまれな才能を発揮して、もっとも直接的に、まさしく哲学的な省察に踏みこんだテクストである。
哲学的な省察は「超越論的」と呼ばねばならないが、この名が指し示すのは諸原理にかかわる問題を考察する或るしかたのことである。
というのもすぐあきらかになるように、「彼岸」によって、フロイトは快原理の例外を理解しているわけではまったくないからだ。かれはありとあらゆる見せかけの例外に言及する。
たとえば、現実が強いる不快や迂回であり、私たち自身の一部にとっての快を別の部分にとっての不快に変える葛藤であり、不快な出来事を再現することでそれを支配しようとするはたらきである。
さらには機能障害や転移現象もあり、それによって、絶対的に不快な出来事(私たち自身の全部分にとって不快なもの)が執拗に再現されることになる。
これら例外はすべて、うわべだけのものとして引用されており、実際には快原理と和解しうるものにすぎない。
つまり、快原理に例外はないが、快じたいの特異な錯綜が存在するのだ。問題がはじまるのはまさしくここである。
なぜなら、一切のものが快原理と矛盾せず、すべてが快原理と和解するにしても、快原理の適用を錯綜させるこれらの湯素や過程を、快原理自身が説明するわけではないからだ。
すべてが快原理の法的圏域に帰着するにしても、それはすべてが快原理から生まれることを意味しない。そして現実の要請も、およそ幻想を源泉とするこうした錯綜を充分説明できない。
それゆえ、快原理はあらゆるもののうえに君臨するが、あらゆるものを統治するわけではない、といわねばならない。
原理に例外はないが、原理には還元しえない残滓が存在する。原理は反するものはなにもないが、原理に対して外在的で、異質ななにかが存在するーーーすなわち、ある彼岸・・・・。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.124).
心的 な 生 の うち には 当然 ながら 快 や 苦 が ある が、 しかし あちら でもことらでも快や苦は、自由で、分散し、漂流し、拘束されない状態にある。
一貫して快が探求され、苦が回避されるものとなるように原理が組織されること、これこそ高次の説明を要求するものなのだ。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.126).
超越論的 探究 の 特性 は、 好き な とき に やめる こと が でき ない という 点 に ある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急ぎ立てられずにいることなどどうしてできよう。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.127).
反復 とは 同時に 以前、 中間、 以後 の 反復 なので ある。反復は時間のなかで、過去、現在そして未来さえも構成する。
現在、過去、未来が時間のなかで構成されるのは同時なのであるーーーたとえそれらのあいだに質的な差異や本性が存在しているにしても、たとえ過去が現在のあとをつぎ、現在が未来のあとをつぐにしても。ここから生まれるのが、一元論、本性の二元論、リズムの差異という三つの側面である。
そして未来や以後を、反復のほかのふたつの構造ーーー以前と中間ーーーに接合しうるということはつまり、相関するこれらふたつの構造は、時間の綜合を構成するとき、かならずやこの時間のなかに未来をひらき、未来を可能にするということだ。
拘束し現在を構成する反復と、消しゴムで消去した過去を構成する反復に対して、このふたつの反復の結合に応じて接合されるのが、救済する反復・・・あるいは救済しない反復なのである(・・・・)。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.128).