見出し画像

ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』読書メモ(3)

4 1923年 11月20日ーー言語学の公準

I 言語は情報を与えるもの、そして伝達するものであろう

・義務教育の機械は情報を伝えるのではなく、文法のあらゆる二項的なベースとともに、記号論的座標を子供に強要する(男性ー女性、単数ー複数、実詞ー動詞、言表の主体ー言表行為の主体など)。言語活動の基本的統一性、つまり言表とは指令語である。
 共通の意味、情報を中心化する能力よりもむしろ、指令語を発し、受取り、伝達する一つの忌まわしい能力を定義しなければならない。言語は信じるために作られてさえいないのであり、従うため、従わせるために作られている。

・言語がいつも言語を想定し、非言語的な出発点を定めることができないのは、言語が、見られたこと(あるいは感じられたこと)と言われたことのあいだに成立するのではなく、いつも言うことから言うことへと移動しているからである。

・「最初の」言語、あるいはむしろ言語に与えられる最初の限定は、比喩でも暗喩でもなく間接話法である。換喩や暗喩に人が与えようとした重要性は、言語の研究にとっては致命的であることがわかる。暗喩や換喩は単に効果にすぎず、すでに間接話法を仮定してはじめて言語に属するのだ。

・言語が、第一の人から第二の人に、目撃した者から目撃していない者に伝わるだけでは十分ではない。必ず、事柄を見なかった第二の者から、やはり見ていない第三の人にも伝わらなくてはならない。
 言語が指令語として機能する言葉の伝達であって、情報としての記号のコミュニケーションではなというのは、この意味においてである。

・バンヴェニストによれば、遂行は行為に関するのではなく、反対に自己言及的な用語の領域(「わたし」、「きみ」・・・等、転位語として定義される真の人称代名詞)に関連する。それゆえ、言語においてあらかじめ存在する主観性や間主観性の構造は、言語の諸行為を前提とするどころか、十分にこれを説明sるものとなる。
 だから、言語はここでは、情報性としてではなく、むしろ伝達性として捉えられ、この間主観性、この言語に特有の主体性こそが、残余を、つまり、人が「それ」を言いながら存在させることのすべてを説明することになる。しかし、問題は、主観的な伝達が、理想的な情報よりもましな言語の概念かどうか知ることである。

・実際、前に起きること、つまり訴えられた犯罪と、後に起きること、つまり受刑者への罰の行使とは身体に働きかける行動ー受動である(財産の身体、犠牲者の身体、受刑者の身体、刑務所の身体)。しかし、被告が受刑者に変わってしまうことは、純粋な瞬時の行為、または非身体的な属性であり、これが判事の判決の被表現である。

・言語を外部と関係づける表現の変数はあるのだが、それはまさにこれらの変数が、言語に内在しているからだ。

・間接話法とは、報告する言表の中に、報告される言表が現れること、言表の中に指令語が現れることである。言語全体が間接話法なのだ。間接話法は、直接話法を前提にするどころか、直接話法こそ間接話法から抽出されるのだ。



いいなと思ったら応援しよう!