心身二元論について
竹田青嗣著『欲望論』第Ⅰ巻「意味」の原理論に基づき心身二元論について記述します。
心身二元論の出発点はデカルトの「精神」と「延長」の区分だとされる。しかし、その先行者は、ガリレイにおける合理主義的物理学主義というべき方法からだ、とフッサールは言う。
どういうことだろうか?
それは、自然科学が、物理世界の自立的因果秩序の構造の普遍的な把握という未曾有の認識方法を手に入れたことによって、心的世界においてもまたその自立的因果の秩序と法則を把握しうるという期待が現われたが、最終的には、心的秩序と事物的秩序の厳密な交換式は決して見出されない、ここに、「心身問題」は「認識の謎」の一つの変奏形式として近代哲学における中心的難問になった、と竹田は言う。
デカルトは「松果体」によって、心身を結合しようとする試みは挫折する。デカルト以後、二原理の一元的統合の理論的努力がスピノザ、ライプニッツ、ドイツ観念論(フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなど)によって行われる。
これも失敗し、実証主義的学問の心理学が登場すると、観念一元論は唯物的一元論がその中心的地位を占めた。
近代の実証主義心理学はアメリカでその主流を展開し、ジェームズ、ティチェナーをへて、ワトソンの「行動主義」にまでいたる。
行動主義的心理学に象徴される極端な実証主義的一元論は、一方でゲシュタルト心理学のような揺り戻しを、また他方で、ディルタイや新カント派、そしてベルクソンやメルロ・ポンティなど、哲学における統合的一元論の試みを生み出す。
しかし、現代の心身論の主流は物理学的一元論への傾斜を強くし、それは認知心理学からさらに認知科学へと受け継がれている。
認知科学の発想の根本性格は、「自然の数学化」の心的領域への適用、すなわち「心的なものの自然化」であるといういうことができる。コンピュータと脳とのアナロジーを基礎として始発し、現代の量子力学の分野のめざましい研究の進展によっていっそう強固にその可能性が叫ばれる。
もし人間の思考あるいは心的作用がどこまでも脳内分子レベルの変化ー運動に還元されるのであれば、物理的な量子の存在と精神の作用との完全な互換性を見出すことができるはずでしょう。
そしてなにより決定的な証拠は、われわれは、科学的には、物理的な構成をまったくもたない心的存在、魂、精神の存在を見出すことができない。このことによって現代科学は、すべての心的現象は事物的な組織、秩序、構造によるものものであると強調することができる。
電脳主義者たちの理論とその実践的探求の根本構想を要約すれば、生き物が生きる内的な「自由」をいかに物理的な連関として再現、あるいは創出することができるのかという、問いとなる。
すなわちここには、「自由」という現象を完全な仕方で物理連関として記述し、次にその物理的因果連関を、完全な仕方で再現できるなら、はじめと同じ「自由」が生成できるに違いない、という暗黙の仮説にある。しかしこの仮説は妥当性をもつのだろうか、と竹田は言う。
ベルクソンやメルロー゠ポンティの哲学的洞察が教えるのはつぎのことである。
端的な結論としては、事物存在の審級は心的存在の審級とは本質的に異なり、前者から後者へ移行することはできない、と竹田は主張する。つまり、認知科学的には、心身一元化はできない、ということになる。