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ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(13)
8 1874年ーーーヌーヴェル三編、あるいは「何が起きたのか?」
ヌーヴェルその二、フィッツジェラルド作『崩壊』、1936年
・何か起きたのか?ーーー「もちろん、人生全部が一つの崩壊の過程である」と断じてから、晩年のフイッツジェラルドが思案しつづけた問いがこれである。だが、この「もちろん」を、どのように理解したらいいのだろう。
まずいえるのは、人生は次第に硬さを増し、ひからびていく切片性に取り込まれるということだ。作家としてのフイッツジェラルドには、旅による衰弱が確実に存在し、そこにははっきり分割された切片が生まれる。
そして切片から切片へとたどるうちに、経済危機、富の消失、疲労と老化、アルコール中毒、夫婦生活の破綻、映画の勃興、ファシズムやスターリンの到来、名声と才能の喪失といった事態が続く。ここでこそ、フイッツジェラルドはその天分を見出すのである。「外からやってくる、あるいは外からやってくるように見える不意の大打撃」。
それは意味性が強すぎる切断を重ね、〈富裕ー貧困〉など、続々と繰り出される二項間の「選択」によって、われわれを一つの項から別の項へと移行させる。
たとえ逆方向の変化が起こったとしても、生起する事象をすべて超コード化する硬直化や老化を埋め合わせるものは何もない。それが硬質な切片性の線なのだ。
しかしフイッツジェラルドは、これとは別のタイプの崩壊があり、それはまったく異質な切片性にしたがうものだと主張する。
それは大規模な切断ではなく、ひびわれるような、いわばミクロの亀裂だ。はるかに微細ではるかに柔軟な、むしろもう一つの局面では物事が良好な状態にあるときに生まれるミクロの亀裂だ。
・分子状の変化によって、欲望 が 配分 し なおさ れ た 結果、 たとえ 何 かが 起きる として も、 それ を 待っ て い た 自我 は すでに死んでいるか、あるいはそれを待つはずの自我はまだ到来していないという状態なのである。
ここにあるのは、リゾームの内在性における圧力と崩壊であって、樹木の超越性によって規定された大規模は運動や大規模な切断ではない。
亀裂は「私たちがほとんど気づかないうちに生まれるが、亀裂を意識するのはまったく不意の出来事である」。この、柔軟性に勝る分子状の線は、不気味という点では第一の線に劣るところはない。いや、それどころかはるかに不気味なのだ。
・さらに第三の線がある。断絶の線となり、先ほどまでの二つの線が破裂し、衝突するのを印づけている・・・・・。他のものに加勢するのだだろうか?
「 ぼく は、 生き残っ た のは どこ かで 真 の 断絶 を なし え た 人 たち だ と 考える よう に なっ た。 断絶 を 生きるのは並大抵のことではない。鎖を断ち切ったくらいでは決して断絶にはならないのだ。いずれ新たな鎖につながれ、元の鎖に戻るに決まっているからである。」
・切断の線と断絶の線。硬い 切片 性 の、 あるいは モル 的 切断 の 線。 柔軟 な 切片 性 の、 あるいは 分子 的 亀裂 の 線。 生死 に かかわり、もはや切片的でない、抽象的な逃走の線、あるいは断絶の線。