笑いについて
笑い原点は、チャップリンの可笑しさにあるのではないかと思っています。彼のこっけいなしぐさのなかに、時代風刺があった。音声がない時代だったので、仕草で笑わすしかない。ヒットラーへの冷やかしもあったが、これは、それこそ命がけの芸であっただろう。
一方、日本のお笑いとなると、大昔に見ていた漫才から主なものを取り出してみると、次のようなものでした。
夢路いとし・喜味こいし:しゃべくり、すっとぼけ
人生幸郎・生恵幸子:ぼやき
西川きよし・横山やすし:ボケとツッコミ、しゃべくり、掛け合い
吉本新喜劇系:くすぐり、ころぶ、嘲笑、冷笑、とんちんかん
といったようなものであり、チャップリンのように時代を風刺するようなものは、ほとんどなかったように記憶しています。特に最近に至っては、吉本興業などは、政府から資金援助を得ているやら維新の会の応援団となっているためか、政権風刺などとんでもないという状況でないか、と思われます。
さて、ベルクソン場合は、著書『笑い』(副題「おかしみの意義についての試論」)では、笑いには3種類あると述べています。
人間的であるということをぬきにしてはおかしみのあるものはない。
人は動物を笑うことはある。けれどもそれは動物に人間の態度とか人間的な表情をふと看取したからであろう、と言うのです。通常、笑いに伴うものには無感動がある。
感動することには、笑いがない、とベルクソンは考えているのです。常に物に感じやすく、生の合唱に調子が合っており、あらゆる事件が感情的な共鳴を伴うようになっている人々は、笑いを知ることもなければ、理解することもないであろう、と言います。もし人が自分を孤立していると感じていたならば、彼は滑稽を味わないであろう。
ベルクソンは、例えとして車中や共同食卓でのことをあげています。旅行者たちが世間話を語っているとき、彼らが心の底からそれを笑っているから、必ず彼にとってはおかしいものに違いないが、彼らの仲間ではない人にとっては、そのおかしみは理解できない、というわけです。
笑いは、集団的、社会的なつながりや文脈的な共有の中から生まれる、と言うのです。
コメディーにしても、各国ごとに文化が違うので、それを共有していないと理解できないということは、確かにあります。
ベルクソンは性格、精神、肉体的なこわばりはすべて社会の懸念の種になるので、これを笑いによってほぐす必要がある、と述べている。
こわばりとは、本来人間は自然なふるまいをするはずだが、そこから逸脱した行為をするようなことを言っています。たとえば、サラリーマンは会社では、ネクタイ姿が普通であるが、奇抜な衣装で出社するようなことを示している、と思われます。
こわばりの原因の最たるものは、人が自分の身の周り、とりわけ自分の内部に目を向けることをなおざりにすることだ、と言っている。
ここまでは、納得のいくものではあるが、笑いとは、社会的ないじめである、ベルクソンは述べている。
確かに、こうした面もあるが、共感して笑うこともあったり、お笑い芸人を笑うことで矯正しようという意向はなく、単に笑うだけのこともあります。
さらに、虚栄心が次のように、笑いと関連している、と述べています。
本質的に笑うべき欠点は虚栄心である、というわけです。
大谷選手が、昨日47ホームラン-48盗塁を達成しましたが、YouTubeでMLBレジェンドたちは、もう笑うしかないと表現しています。YouTubeのことですから、これを本当に言ったのかどうかは定かではありません。
ただ、彼らにとっては、自分たちが世界一であるという誇りを持っているMLBで彼らでさえ達成できなかった記録を日本人が簡単に更新していることに、もう笑うしかないと言うのは、分かる気がします。笑いには、こういう意味も含まれているのでしょうね。