読書の記憶〜怒りの葡萄
言わずと知れた20世紀アメリカ文学の超大物、スタインベックの代表作。
アメリカ連邦議会襲撃事件の頃に気になって、文庫版を購入し、きのう読み終わった。いま、ずっしりした読後感で体が重い。
高校生の時に読んでいるはずだけど、他のスタインベック作品と印象がごっちゃになっていた。最終盤の嵐と洪水のシーンはちゃんと読めていなかったか、途中で手を止めていた気がする。甘ったれのロザシャーンが最後にあんな風に覚醒したなんて、全く覚えていなかった。
物語の主人公は未熟な資本主義とアメリカの自然に振り回されるジョード家。旱魃と砂嵐で中西部の畑を失った一家は変わり者の叔父、口の悪い祖父母、行きずりの元伝道師と供に仕事を求めてカリフォルニアへトラックで旅立つ。上巻は夢の国へ向かう道中のサバイバル、下巻は過酷な現実に立ち向かうサバイバルだ。
高齢の祖父母は旅の途中で亡くなり、冒頭で印象的に登場する長男のトム(殺人で仮釈放)は物語の後半でいなくなる。その後、物語を引っ張るのは一家の主婦であるおっ母(名前はない)。最後には有金も底をつき、トラックも水に浸かり、洪水と嵐に襲われた家族が古い納屋に逃げ込んだところで唐突に物語は終わる。とはいえ悲劇的ではない。とんでもなく悲惨な状況になのに、誰も泣いたりしない。
「これからどうする」「何とかするさ」という会話が繰り返され、実際に家族はどこまでも一緒に踏みとどまる。
今回再読してみて、アメリカ人の銃へのこだわりや、小さな政府を良しとする姿勢のベースには、こういう物語があるんだなと思った。山と川に囲まれた日本やアジアの村社会とはまるで違う。
そもそもアメリカの過酷な自然の中では生きる事自体が大変だし、建国時から弱者を搾取して成り立つビジネスモデルがあった。ジョード一家はそんな現実に振り回されるうちにだんだん変わっていく。
「自分たちの仲間じゃないおまわりなんか、追い出せばいい。自分たちのもののために、みんなが力を合わせる。誰もが自分の畑を耕す」
長男のトムは、母親にそう言った後で物語から消えていった。
アメリカの保守強硬派に共感はしないけれど「怒りの葡萄」を読み終えた後、彼らの怒りやもどかしさの意味が、ちょっとわかった気がする。
「自分の畑は自分たちで耕したい。やりたいようにやらせてくれ。そっちに面倒はかけないから」という気持ちは、きっと誰の中にもあると思うのだ。
「ヒルビリー・エレジー」やトランプ現象に関する本もいくつか読んだが、この作品がいちばん深く刺さった。アメリカ恐るべし、さすが時代を超えて読み継がれる名作とスタインベック先生である。
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