仮講義「松浦寿輝の〈1880年代西欧〉」(Leçon 35)

Bonjour ! それでは始めたいと思います。
昨日ですね、フローベールの話をいたしました。今朝スマホをみていたら、『プチ・二コラ』のサンペが描いたフローベール、というのがまわってきました。笑 これです↓

「散文アレルギー」になり、フローベール関連の本は全部段ボールに閉まって押入れの奥にいれてしまったわたくしではありますが(苦笑)、こういうのは嫌いじゃないですね。散文は嫌いだけど、フローベールは嫌いじゃない、という独特の精神状態に落ち着いたわけです。笑

なので、批評家や大学教授が「表象」すると、フローベールって「愚かさ」を憎んだ厳密で批評的で神経症的な「散文の芸術家」ということになってしまうわけですが、どうなんでしょうね…。サンペのこのイラストをみていると、フローベールの文学それ自体はもう少し何か、広い射程を持っているような気もしないではありません。

それでは、松浦講義に戻りましょう!

『エッフェル塔試論』を読んでいるのでした。少しフランスの歴史をまとめておくと、エッフェルの時代のフランスは「第三共和政」という政体の時代でした。「ベル・エポック」なんて呼ばれる、ある種明るい時代もこの時期にあります。これに対し、これ以前、それこそフローベールやボードレールの時代は「第二帝政」の時代です。『悪の華』にせよ『ボヴァリー夫人』にせよ、権力の検閲にあい裁判沙汰になっているわけです。極めて抑圧的な時代だったわけですね。最近邦訳が出た『家の馬鹿息子』第3巻(邦訳第5巻に相当)も、この「第二帝政」の詩人を扱うものです。まさに、詩人たちの「神経症」が問題になったりもします。

どう説明していいか少し微妙ですが、ある種、神経症的で殺伐とした「第二帝政」の時代から、もう少し牧歌的な――といっては言い過ぎかもしれませんが――「第三共和政」、「ベル・エポック」の時代に移行する、というようなイメージをわたしは持っています。

例えばですね、『エッフェル塔試論』でも引かれるドゥアニエ・ルソーの《私自身、肖像=風景》(1890年)、これなんかがわたしの中での「第三共和政=ベル・エポック」なんですね。後ろにエッフェル塔が描かれています。

「ベル・エポック」というのは、フランス語で「美しい時代」を意味します――ちなみに、わたくしの「ベル・ソルシエール」は「美しい魔女」ですね。日本語の「美魔女」から来ています。笑

冒頭で挙げたサンペのフローベールなんかも、どこか「ベル・エポック的」な感じもしますけどね…。つまり、やはり、「第二帝政」の蓮實重彦と「第三共和政」の松浦寿輝という対比は存在することになります。蓮實先生は「散文」の専門家で、『伯爵夫人』など小説も書かれています。松浦さんはヴァレリーやブルトンなど「詩」の研究から出発されましたが、いまは詩も小説も両方とも書かれるわけです。なので、確かに、外からみると似ている感じもあるのかもしれませんけど、「言語態」の在り方はかなり違うような気もいたしますね…。

蓮實先生はですね、わたしはもう、あんまり読んでないですけどね…。苦笑 何が好きかな…今思うと、『伯爵夫人』かもしれません。文学って、もちろん、切実で神経症的な面もありますけど、「笑い」の装置でもありますよね。『伯爵夫人』は、やっぱり笑ってしまう。そこは重要ですね。松浦さんだとですね、『月岡草飛の謎』というのがありまして、これもかなり笑えるんです。笑 とか書くとですね、「栗脇先生は頭いいからそういう高尚な文学で笑えるんでしょ?」とか思う方もいるかもしれませんが…。どうでしょうね、この2冊はあんまり身構えずに読んでも楽しめるんじゃないかなと思いますけどね…。結構、本当に笑えます。笑

昨日、バルトの話もしましたが、バルトにはふたりの特権的な小説家がいるのではないかと思います――色々な見方があると思いますけどね。ひとりはフローベールで、もうひとりはプルーストではないかと思います。つまり、コストさんの『バルトの愚かさ』はフローベールの継承者としてのバルトにスポットをあてるものかと思いますが、多分、プルーストの継承者としてのバルト、というのもいるのではないかと思います。

Anne Simonというプルーストの専門家がいるのですが、そのひとにTrafics de Proustという本がありまして、この本がメルロ=ポンティ、サルトル、ドゥルーズ、そしてバルトにおけるプルーストを研究していたりします。ちなみに、サルトルもですね、かなりプルーストを意識していた節がありますけどね…。澤田さんあたりが論文を書いていたはずです。

プルーストに関してはですね、随分前に書きましたが、松浦先生の授業でリシャールのプルースト論を読んだことがあるんです。松浦さん、その授業の後でリシャールの「触手的読解」について、学内の冊子か何かに書かれていた気がするんですけどね…。ちょっといま手元にはありません。

リシャールというのは、もちろん、日本には蓮實先生が紹介したような部分がありまして、「テマティーク」な批評というのを展開するわけです。「主題論的」という風に訳されるんですが、われわれ一般人が考えるようなわかりやすい「テーマ=主題」ではないんですね。例えばプルースト論なら、La consistanceというのが最初の「テーマ=主題」なんです。辞書で引きますと、「①粘り気;固さ、②確実さ、一貫性」と訳語が載っています。なので、どう訳せばいいか微妙なんですが、「固さ=一貫性」みたいなものでしょうか、そういうものに着目してプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいくわけです。で、食べ物の話になったりするんですね。

プルーストもですね、わたしは挫折してしまいましたが(苦笑)、松浦さんはフローベールよりはプルーストに関心があるのかな、と思います。昔ですね、表象文化論コースの学生室というのがありましたが、そこに、先生たちが選んだ推薦図書というのが置かれていたんですね。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』なんかと並んで、プルーストの全集が置かれていたのを懐かしく思い出します。あれは、もしかしたら、松浦さんの選書かもしれません。

松浦先生は文学担当みたいな意識もあったんですかね。それこそ、ヴァレリーの『エウパリノス』やリシャールの『プルーストと感覚世界』、あとサルトルの『嘔吐』なんかもセミネールで扱ったとかおっしゃっていましたね。入江くんか誰かが、フランス語の授業でドゥルーズとフーコーの対談を読んだ、とか言っていた気もいたします。

松浦さんのセミネールは、のんびりした感じなんですよね。多少、二次文献の紹介などもあったかもしれませんが、基本は精読。訳すのも、準備して書いてきたものをつらつらと読み上げるのではなく、たどたどしく前から訳しなさい、という方針でした。わたしもですね、リシャールの購読の授業で派手な誤訳を一杯しました。苦笑

なので、もちろん、訳書が出るのも嬉しいんですけどね。たどたどしく誤訳しながら講読していた時間こそ、一番充実していた気もしますね。

とにかく、翻訳というのは時間と心に余裕があるときでないといいものはできないと思います。残念ながら、最近出ているフランス思想のものなどで、本当に初歩的なレベルでの誤訳が目立つようになってきたのは否定できません。いま、おそらく、大学教員は前代未聞の多忙さを経験しているはずです。出版社との関係などもあるとは思いますが、数は少なくとも、「いい翻訳」を残すことこそが本当の意味での「業績」なのではないかとわたしは思います。わたしも、また、時間と機会ができたらやりたいんですけどね…。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇

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