私が隠岐に行く理由。一年で一番応援される一日。
人生で初めて100kmを走った隠岐島ウルトラマラソン
今回の旅の目的はこの隠岐島ウルトラマラソン。
わたしは1年ぶりにこの地に帰ってきた。去年、私は隣島の知夫里島に暮らしていた友人に誘われ、ハーフの部(50km)に出場した。
ウルトラマラソンの洗礼を浴びながらも、島人たちの優しさとあたたかさに惚れてしまったわたしは、走り終えた時点でまたこの隠岐に戻ってくることを決めていた。
そして、その旅で宿泊したOKI うみのいえという宿が、それはもう最高だった。
これも友人の紹介によって知った宿だったが、ここの女将さん兼海人さんであるハルさんが出してくれるご飯や、自身の生き方、暮らし方に一瞬で惚れてしまった。
その後、私の両親も隠岐に行き、このお宿でお世話になってハルさんと仲良くなるのだが、我が家はきっと皆気にいるであろう宿であり、本当に『また戻りたい』と言う想いが一番強いかもしれないホームなのだ。
だからこそ、我が家で唯一まだ隠岐に行ったことのない姉を連れて、隠岐の大自然とハルさんに出会わせたいという想いで、今回ウルトラマラソンに誘った。
レース当日
レースは100km。
朝5:00スタートの19:30ゴール関門。14時間半の旅だった。
普段からトレイルランはしており、レースなどにも出ているものの、100km越えのレースは初めて。
『これまでのチャレンジは70kmが最長の私でも、100km走りきれるのか?やればできるのか?70kmを超えた世界はどんな境地が待ち構えているんだろう?限界を超えた時、人はどうなるんだろう?大好きな隠岐の島をまるっと一周回ってみたい!』
そんな好奇心でしかなかった私の挑戦が、始まった。
スタートは西郷港。ポートプラザから大勢の選手が一斉にスタートした。スタート時には、その日誕生日の選手の名前が読み上げられ、みんなで拍手をしてお祝いするなんてハートフルな時間もあった。
最初はみんな体も心も元気。嫌でも動くので、できる限り調子に乗りすぎないように控えめペースを意識した。
〜10kmあたりまでは姉と一緒に並走。途中、自然と見失い別れてしまったが私が先に足をすすめた。
しばらくするとこのウルトラマラソン名物の3kmおきの給水所と、沿道の暖かい応援が。
フレンチブルドッグが寝ながら応援してくれていてめちゃくちゃ癒されたり、“じぃさま94歳“の名札をぶら下げたきゃわいいじいさまが満面の笑みで応援してくれていたり。
走っているだけなのにこんなに元気がもらえて、がんばれって言ってもらえて、ほんとに幸せだなぁと思った。
“一年で一番応援される日。”
去年友人が言っていたけれど、本当にそうだなと実感した。20km過ぎでちょうど宿の前を通り、元気な太鼓応援を受ける。
なんだかとーーっても元気が出た。
途中、小学生の作ってくれたお手製の応援旗があったり、私設エイドで飲み物や食料(レモンの蜂蜜漬けや梅干し)を出してくれていたり。
去年の激うま甘酒には出会えなかったけど、本当に愛されている大会だと実感した。
何より応援してくれている島のみんながそれを楽しんでいるのが伝わってきてこっちまで嬉しくなった。
50km(半分)のエイドは11:30ごろ通過。
お腹も空いていて、行ける気がしたのでカレーを補給し元気を出す。食べてすぐはちょいとオェっとするも、のちのエネルギーとして活躍する。
やはり、食べれる時に食べておかないと。
40〜60kmの間は、本当に一番しんどかった。
タイム的にも一番落ちていた。足もそうだけど、なんだか眠気が襲ってきて、トンネルの中を走る時は半目でエネルギーを溜めていたし、走ったり歩いたり調整しながら、でもできる限り止まらないようにした。
個人的に良かった補給は、給水所で必ずスポドリを取ったのと、持参のAndoと井村屋の一口羊羹。あとお守り的に持っていた塩は安心材料になった。あんこ系の補給は自分の体に合っていると実感した。
いよいよ未知の領域へ
70km以降は、まさに未知の世界。
大体そのあたりから前後する選手が固定されてくる。登りで私が抜いて、下りで抜かれてみたいなのをちょこちょこ繰り返し、追いついたら声をかけて励ましあう。
トレイルランニングみたいに、ウルトラマラソンにもその世界があるのが楽しかったし、モチベーションにつながった。
70km〜80kmの関門に向けては、たまたまその前にエイドで出会った京都から来たおじさんと並走した。おじさんは下りが強く、私は登りで引っ張る。そのおじさんは、ウルトラは3回目だけど、過去2回は80kmあたりの関門でどちらも引っかかってしまったとのこと。
今回こそ必ず完走したい!
と言っていたので、私もそれに妙に心を打たれて『それなら一緒に必ず完走しましょう!』と隣を走らせてもらった。
話しながら走ると元気も出てくるし、ピッチが刻めて走れる走れる。
本当に私自身も救われたしペースがまた上げられた。下りの惰性走りと、呼吸法はそれ以降も続けてなんとか走り続けられた。
何度か給水所を共にしながら、80km過ぎで『先に行って』と送り出される。寂しかったけれど、『必ずゴールしましょうね!』と約束して別れを告げる。
そこからもペースを絶やさず、70kmの関門は15分前に通過、80kmの関門は10分前に通過をした。
80kmの関門が一番厳しいようで、そこを超えたあたりでみんな『ここまで来れれば大丈夫』という感じだった。
それでもこんなに時間に追われて走るのは初めてで、『ここまできたのに完走できないのは絶対に嫌だ!何がなんでもウルトラマンに私はなる!!』と思ってとにかく前に足をすすめた。
(※ウルトラマラソンを完走した人のことを、ウルトラマンと呼ぶらしい)
途中、沿道の応援の方が『止まらず足を前に進め続けたら必ずゴールできますから!』と言っていたり、みんな選手のゼッケンナンバーを見て名前を呼んでくれたり、給水所で『魔法の水』と言っておじさんや中学生たちが水をぶっかけてくれたり。
本当に、たくさんたくさん元気をもらったからこそ、ここでやめられないと強く思った。
途中、回収バスに姉が乗っているのが見えたのも背中を押した。『私だけでも必ずゴールしなくては!』あとは意地の戦いだった。
80〜90kmの間あたりで、姉が応援してくれていた。すごく嬉しかったのに、疲れてロートーンだったのは申し訳なかったが、『いけそう?』の問いに『いやもう足がもげそうだけど、行くしかない!!』と返したのは本当に本音だったし、あとはもう気合と根性だと思って走った。
96kmの最終関門を、10分の余裕をもって通過。それ以前に何度か行き来していたけん玉おじさんに追いつき、(子供達の前に来るとけん玉を披露し、盛り上げるおじさん。めちゃ素敵やし、そのパワーどこからやってくるんや?エンターテイメント性がみんな高くて、応援の方々を逆に楽しませていて、来年私は何をしようか?と考えてしまった)声をかけ合いながら走らせてもらった。
ラスト5kmはもうみんなお祝いモードだった。
私の周辺はぎりぎりこのまま行けば関門に間に合う勢だったこともあり、みんなで『頑張りましょう〜!』とか、『もう少しですね!やっと来ましたね!』なんて声をかけながら走り合う。
この時間が、とにかく好きなのだ。
それぞれがそれぞれの100kmを走っていて、それぞれのドラマがあって、でもゴールが近づいてそれぞれが振り返りながら、お互いにここまでの努力を讃えあい励ましあうあの時間が大好きなんだ。あの、人生の縮図のような時間が。
だから私はレースに出続けるし、あの瞬間を味わいたいから走り続けるんだ。
決して一人じゃないんだってことを存分に感じ、エネルギーが湧き出て最後の坂を登り切った。
最後は不思議なぐらいエネルギーが出た。お姉ちゃんも沿道に居てくれた。とにかく時間内にコールできたことが嬉しかった。
なんとか、関門に間に合った。ギリギリ8分前だった。
最後に振り絞った力、振り絞れた力は、ただものではなかった。
それがこの日わたしが一番感じたことだった。
そして、いつも通り、やっぱりゴール後は気持ち悪さにやられながら(若干の脱水と安心感)休憩し、姉ちゃんの車に乗せてもらった。
本当にいろんな面でサポートしてもらって感謝しかなかった。
わたしが隠岐の島ウルトラマラソンを好きな理由
大会を終えて思うのは、やっぱりこの隠岐島ウルトラマラソンは、きついけれどそれを上回る感動が得られる大好きな大会だということだった。
こんなに何度も何度も出たいと思えるのは、惹きつけるご縁とパワーがあるからなんだろうな。
応援してくれる人たち自身も、それを楽しんでいる感じで、島の一大イベントを待ち構えているような、そんな雰囲気なのだ。
みんなで宴会しながらそれぞれの楽しみ方で応援しているこの大会に関わっている。
自分が理想とするスポーツツーリズムの形がそこにはあった。
他のウルトラではきっと得られない、特別な“何か”をこれからも求めて、私は隠岐に通うのだと思う。
そしてその日の夜、ハルさんは、去年のようにお宿で我々を迎えてくれた。
これが本当に、うれしかった。
ハルさんに報告をしてお風呂に浸かり、わたしはぐっすり眠りについた。
…つづく