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幼年期の終りというドツボ


D'où venons-nous ?  Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

『われら何処より来たるや、われら何者なるや、われら何処へ行くや』
病気と孤独に苦しみ死への渇望を抱きながらもゴーギャンはこの絵を完成させた。誕生から人生の終わりに向かって歩む人間の一生が幻想的なサルビアブルーを基調として描かれている。
『幼年期の終り』は「われら何処へ行くや」の回答の1つである。
  
1900年代、ソ連とアメリカが争うように人類の宇宙への第一歩という栄誉ある歴史を我がものにしようとしている最中、彼らは突然やって来た。宇宙の遠い果てからはるばるこの水の惑星くんだりまでやって来たのだ。彼ら-オーバーロード-は人類が今後100年経っても獲得できないほどの進んだ科学技術を有し、その力と深淵な知性で人類を「育てた」。そして人類の2000年以上の長い歴史の中で1度も達成できなかった「世界平和」を彼らは人々に与え、豊かさが世界を包み、地球は『巨大な遊園地』となった。

かつて人々は宇宙を目指した。

自分をとりかこむ世界を追求をしていくことで自分自身を知りたいという欲望が誰の心にもあった。周囲を見つめることで自分の立ち位置を知ろうとした。その極地に宇宙というフィールドがあった。だが人類は宇宙に夢を見ることはなくなった。宇宙にロマンを抱くことはなくなり、人々にとって宇宙はただ地球を包むテクスチャになり果てた。そうして人類の文明は停滞した。当然どんな社会になろうと人々の向く方角が一致することはない。オーバーロードの作り上げた世界を謳歌し本質を探ろうという欲望を失った人々に対しその逆を行く人々もいた。彼らは独自のコミュニティを作り、これまで人類が持っていたはずの芸術や文化を探求することに勤しんだ。

だがその平穏の中で「幼年期」は終わりを告げた。
新たなる子供たちは親元を飛び立つことにしたのだ。 
肉体を捨て、1つの精神となりオーバーロードに迎えられた。ジャン・ロドリクスは最後の「人間」としてその幸福か不幸と呼ぶべきか分からない子供たちの門出を見届けた。

その時、地球は広大な宇宙から消えた。

と真面目にあらすじを書いてみました。書いてみましたがずっと内なる藤原竜也が「どうしてだよおお」と叫んでました。あの元ネタってカイジかDEATHNOTEのどっちなんですかね。

満ち足りた世界で生きること。争いも知的好奇心も創造も過去のものとすること。ユートピア。だがそこに息詰まる閉塞も抑圧もなかった。人間性を奪われその不可能性に苦しむこともない。あるのは少しの「ちょっと息詰まるな」というくらいの気持ち。だからこれは別にディストピアでもなんでもなく、オーバーロードという異星人の努力によって完成した本当のユートピアと形容した方が正しい気がする。

個人的にはユートピア小説とディストピア小説は相反するカテゴライズなどはなくて同じグループ内だと思っていて、「ユートピア」と銘打っていても実は闇をはらんでいる理想郷でした、という美しさと不条理だとかの仄暗さが同居していましたというのがユートピア小説だと思うんです。だけどこの小説の「黄金期」の社会からは別に仄暗さがほとんど感じられず、せいぜいニューアテネを建設した人々のようにその充足と停滞に不満をもつことぐらい。だから描かれる純粋なユートピアを見てもただ淡々とした気持ちにしかなれなかった。フラットに描かれたクリーンに近いユートピアであるからこそ、浮かぶ問いも、ぼんやりとしたものになってしまった…と感じたのです。

その気持ちのまま迎えた終盤のハイブマインドという展開にもついていけずじまいでジャンの実況の切実さにほんのりうるっとするだけで読みおえてしまった。面白いはずなのに読んでいる間ずっと霧のようなもやもやした気持ちで、どこかの惑星の知的生命体の年表を眺めているような感覚のような。SFを読むときに期待する思わぬところでどうしようもない現実に遭遇してしまったという虚をつかれる、という展開が(あるけど実感できなかった)なく綺麗にまとめられた答案として読めてしまって楽しいはずなのにクリーンであるがゆえに楽しめない的な…。クラークの考える「われら何処へ行くや」の回答を読んでいるだけのような…。

と書いて感想を書きながらも、結局のところ自分の理解力の不足なのだという事実が色濃くなっていく悲しさ。今、自分に対する渾身の「どうしてだよおお」が空しくこだましています、はい。


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