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虐待禁止条例という大義を放り翳した虐待

本当に、呆れるくらい論外な案件

あなた、物事の本質見えてます?
と口をついて出そうだ

立案した人も賛成派も反対派も
全てが全て論点がズレている

なにがって?

埼玉の児童放置禁止の条例案

私が感じたのは
明らかに子どもの人権無視だが
それに言及する意見はほぼない

お留守番をさせるのは虐待?

笑止千万!

小学生のころの
うるさい親がほんの束の間いない
お留守番時間の自由でワクワクした喜び
経験した事ないのかな?

確かに、『留守番をしたくない』と
大泣きして足にしがみついてくる子を
蹴散らして強引に留守番させたり
子どもが不安になってしまうくらい
長時間留守番をさせるのが
虐待と言うなら、それはそうだと思うし

一人で何もできないような乳幼児を
留守番させるとか
子どもの意思と反する留守番は虐待だと思う 

息子さんも、小さい頃は
『〜行くけど、一緒に行く?』と聞くと
必ず『行く!』と言った

しかし、小学生になってしばらくすると
自分が行きたくない場所や
その時に自分がやりたい事がある時は
『留守番する』と言うようになった

それでも不安なのか
『何分くらいかかる?』と聞いて来た
そして、その時間の長さで
自分が行くか行かないかを決定しているようで
年を追うごとに耐留守番時間は長くなっている
(その時の気分にも大きく左右されるが)

息子さんにとってお留守番も冒険であり
自立のためのステップなのだ

もちろん『◯◯分以内に帰ってきて』と
言われればちゃんと帰る

大事なことは
お留守番は親子の信頼の上に
成り立つものであること
(この辺もこの条例案は無視してる)

このくらいの時間なら一人でいられる
一人にしても、危ない事はしない
勝手にドアを開けない、火は使わない等
約束を守ってくれるという子どもへの信頼

必ず、帰って来てくれると言う
親への絶対的な信頼

この双方で成り立っている限り
虐待とは言えないどころか
大人への大事なプロセスだ

動物だって少しずつ距離を置き
子どもの自立、親離れ子離れをしていく

それを未成年のうちにやらせずに
ある日を境に
『今日から大人だから
 なんでも一人でやりなさい』
と言われたらどうだろうか?

それまでに、お留守番などを通して
少しずつ積み上げた自信もないのにだ

かなり、辛いし戸惑いも大きいと思う

〝一人でしたい!〟は成長だし
〝一人でできた〟は自信、自己肯定につながる

もちろん
人は一人で生きて行くのは困難だ
本当の意味で一人で生きている人なんて
どっかのポツンと一軒家で自給自足して
人との関わりを絶って一人暮らししている
仙人みたいな世捨て人くらいだ

だからこそ、大切なのが社会性であり
コミュニケーション能力だといえる

では

子どものコミュニケーション能力が
つけられる一番の場面は何か?

やはり

同じような年齢の子どもたちと
一緒に遊ぶ事だろうと私は思う

子どもたち同士のコミュニティの中で
喧嘩したり仲直りしたりを繰り返して
お互いに身につけていくものなのではないか

放課後、大好きな友達と
寄り道したりふざけ合いながら帰る

公園に集まって、一緒に走り回ったり
秘密基地を作ったり

そんな子どもだけのキラキラした世界に
常に監視するような保護者がいるの
想像しただけでオエッーってなるし

ママ友同士が集まれば話に夢中になったり
マウンティングし合ったり
結局、子どもになんか目が行き届くか疑問だし
本当に無駄な時間だ

・大人と子どもという上下関係

・子ども同士という対等なコミュニティ

・独り時間

どれもがバランス良くあることで
子どもは成長し自立していける

確かに児童放置による悲惨な事件もある

しかしアレだ…言い方は悪いけど…
悲惨な事件は
金八先生が言うところの
〝みかん箱の中の腐ったみかん〟だ

腐ったみかんが一個あったからって
他みかんが腐らないように
全てのみかんから自由を奪って
自立のチャンスを奪って放置をなくすべきか?

それは違うんじゃないですか?
と私は強く思う

とかく親や大人は、子どもの人生から
危険や失敗を取り除きたがるけど

本当に大事なのは
子どもが安心して、恐れず失敗できる環境
何度も何度もトライ&エラーができる環境
なんじゃないかと思うのです

その辺の本質的な視点もなく
大人の都合ばかりスポット当てて
本当クソだな