見出し画像

「パリオリンピック」「パラリンピック」合わせて「パリリンピック」何?

新聞の番組表を開く。

 ん、パリオリンピック、え、パラリンピックか、違う、『パリリンピック』かな。
 そんなのないよ。
 老眼鏡を外して、「おお、『パリオリンピック』だ」
 とまあ、頭が混乱。
 右脳と左脳の仲が良すぎて、二つのオリンピック名が狭い脳味噌の中を行き来して、ごった煮、一緒に、なっちゃった。

紛らわしい名称、これに極まれり。

 いっそのこと、合併、統合、一体化は、いかが?
  別オリンピックとして独立していなくても、障害者枠を一つの分野として扱い、オリンピックの中で位置ずけていく。一緒の場で、障害者選手の競技を実施しても、いいのではないか。
 だって、すでに、人種を超えて、男子・女子、体重別というように、一つの種目で、分かれているのが普通なんですから。

障害者枠だって一つの階級

 つまり、種目として、障害者枠を一緒に扱ってはいいのではないでしょうか?
 例えば、柔道。
 体重別に、視覚障害者の体重別があったりして。
 もちろん、安全管理、運営上、補助者がつく、試合の日を別にするなどの工夫はあるべきです。でも、今の別のオリンピックにまで、分けなくてもよいと思うのです。

「バリアフリースタイル」の徹底

 障害者をも、一つの個性。一つの競技の資格として扱うのです。
 今は、そういう時代でしょう?
 生活も雇用もスポーツも。芸術なんか、絵画も、また音楽も。

ついつい、脱線話

 そういえば、全盲の凄いピアニストがいるじゃないですか。全盲でどうしてあんな演奏ができるのか。
 私なんか、未だに音符がピンときません。使える楽器は縦笛くらい。子どもの頃、母に連れられてピアノ教室に行き、鍵盤にも触れず「僕には合わない」と逃げ出した思い出あり。
 中学三年生の時、音楽の授業態度が悪くて、中学一の紳士の先生を怒らしてしまったこともあります。「お前は授業を受けなくてよろしい」と。私は机に両手をついて土下座風に謝った次第。何しろ、義務教育なもんで。私の後ろの奴が、背中をくすぐるのが悪いんだって。
 おっと、脱線。

お話をもとに戻します。


 男子・女子、体重別のように、一つの分野として扱って、開会式、閉会式は一緒。100メートル走は、車椅子部門もありで、表彰式は一緒に順次行う。いい光景ではありませんか。
 皆で祝い、皆で同じ精神、マスコミも同様に扱い、それぞれの分野で競い合い、メダルを獲得する。
 だって、凄い努力と気迫と誇りは、今のパラリンピックでも、同じですよね。運営上の工夫で、「一体的な大会として、乗り切れたらいいな」と、思ったのです。
 パラリンピックのレベルアップで、可能性を感じているもので、パリオリンピックの名称の混乱が、かえってあるべき論に展開して発展してしまいました。
 それだけでも、「パリオリンピック」開催の意義あり。

聖火リレーでも障害者が入り、オリンピック旗の掲揚でも、加わる。

 まてよ、このシーンは、今までのオリンピックであったかも。未確認で、
すみません。
 とにかく、この一体的な開催が全世界で違和感がなくなったとき、オリンピックは『世界の祭典』になるのではと。
 え、シルバーオリンピックは、どうするかって。
 これは別でしょ。
 生涯現役の人もいますからね。
 馬術なんか、年配の選手がいるわけで、定義が違いますものね。
 私が100歳を過ぎて、100メートルを9秒台で走っていたら、普通にオリンピック選手に出れるわけです。
 年齢は、誰でも年を取るものなので、前提条件が違うかなと。

平和の祭典は可能か

 最後のテーマはこれでしょう。
 オリンピックは、対立をルールを守った競い合いにシフトして、礼儀と友情と自己研鑽の機会とする。
 世界の平和の道を進む一つの方法。
 現実は厳しくても、スポーツが教えてくれる、人対人の交流を守ることが、オリンピックのテーマでしょう。
 コロナ化、東京オリンピックでも苦労しましたが、どんな状況でも『開催することに意義』がある。
『継続は力なり』と結びたいところです。
 明日の平和に向けた祭典として、希望をもって、番組表を見ています。
 えーと、虫メガネ、100円ショップで買おうかな。
 


サポートしていただき、ありがとうございます。笑って泣いて元気になれるような作品を投稿していきたいと思います。よろしくお願いいたします。