創作はどこからアイデアが生まれるのでしょうか
潜在意識の大地から花や雑草が生えてくるように、アイデアが生まれるような気がします。もちろん、芽が出て、何になるんだろうかと、太陽の光や水や肥料や、ついでに害虫駆除もしたりして育んでいくのでしょう。
花が咲く、実がなる、樹木になる、雑草の茂みになる。何かになっても、すべては命の表現です。一本の目立つ巨木になったり、林になったり、森になったり、ジャングルになったり。でも、ささやかなキノコの場合もあるでしょう。
創作は、突然、火山のように爆発することもあれば、泉のようにこんこんと湧き出ることもあり、石油や石炭のように掘削して探し出すこともあります。残念ながら、採掘が空振りになり、徒労に終わることもあるでしょう。実は、もう一堀りしたら、鉱脈を見つけられたかもしれません。
足もとで、石ころだと思ったら、磨いてみたらダイヤモンドだったなんてこともあるかもしれません。可能性は、やってみないとわからない。先が見えないものではあります。太鼓判なんて創作にはないものの、やらなければ何も始まらないものでもあります。
結局、生きることは、創作の観点からは道に迷うことでもあり、未知の冒険でもあり、頼りない羅針盤で航海に乗り出すことかもしれません。途中で迷路にはまったり、谷に落ちたり、川に流されたり、海で溺れかかったり、遭難しかかったり、凍えたり。
とはいえ、何もしなくても、人生の限られた時間は減っていくばかりです。選択は自由ですが、悔いは残したくないものですね。「生きる、生かす、生かされる」という道が、もしあるのなら、歩んでみたいものです。
楽観や信念や直感、情熱や意思や価値観、頭の中にどんな行動の引き金が在ろうとも、踏み出すのは足です。闇に一歩踏み出すときは、足先が未来を感じ取ります。歩けば歩くほど、足は強くなるかもしれません。速い足、強い足、弱い足、杖が必要な足、ひとそれぞれ。
でも、自分の懐中電灯は一つ。せいぜい足元か、一歩先しか照らせない。いつ電池が切れるのか分からないけれど、電池は使わなくたって、いずれ放電して使えなくなるもの。それならば、心細くても、自分なりの一歩を踏み出していくのが、人生ドラマの始まりではないでしょうか。
先にどんな世界があるのか分からないけど、進まなければ出会えない世界があると思いたいものです。佇めば既知の世界にとどまり、進めば未知の世界に足を踏み入れる。可能性は未知の世界にあるもので、リスクと隣り合わせかもしれませんが、踏み出さなければ何も起こらない。静かに老いるだけです。それも大切なことと思いますが、まだ自分はそんな時期ではありません。
放っておけば、居眠りしたり、寄り道したり、わき道にそれたりする自分。まずは目標を睨むことが大切だとは思います。もちろん目標の見直しも必要でしょうが。
とにかく、なんとか井戸を掘りつづけて、地下水脈を掘り当てて見たいものです。「世界につながっている地下水脈がきっとある」と思いたいものですね。では。