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どん底の苦悩。孤独の谷間。絶望。でも自分に向き合えば道がある。

 (本作は、ある投稿サイトで青年の鬱の苦悩に接し、筆を取ったものです。私の思いが、少しでも伝えられたら本望です)

挫折。自分しか見えなくなる時。

 自分が崩れるような感覚。空や大地が真っ暗になった。挫折やコンプレックスや鬱っぽい時。いや鬱そのものか。
 心の中は真っ暗で支えもなく、いつしか死ぬことばかり考えている自分。
 どうにも逃げ場がないような孤独な世界。
「自分のことしか考えられないのに、自分のことが分からない」
 こんなとき、周りで理解してくれる人はいないもの。
 実は、苦しすぎて『誰にも話せない』のが、このような時。
 両親や兄弟、友達、同僚。今までの親しい人に、胸の内をさらけ出せない。自分の心の状態を、そもそもどうやって伝えたらいいのか、分からない。社会の中で、自分ひとり別の世界にいるような違和感。
 すべての人間関係が、突然、遠くなる。 

「自分は孤独だ。一人ぼっちだ」

 たとえ、誰かに悩みや苦しみを打ち明けても、ピント外れの反応が返ってくるばかり。結局、落ち込み、絶望感を深める。
 本当は感謝すべき時なのに、ただただ無口になって、貝殻に閉じこもる。
 体の調子も、おかしくなってくる。
 勇気があれば、医者やカウンセラーに診察や相談するのも一つの方法。
 でも、これで本当に根本の課題が解決するのか。人生の道が見えるのか。対症療法になってしまうのではないかと、自問自答するばかり。

自分でやるしかないと追いつめられる

 自分なりの戦い。自分なりの努力。
 疲弊して、子供の頃の教育的な人生観が、かえって孤独の壁をよじ登る自分の重しになっていたりして。
 助けを求めて、宗教に接することもある。
 先人の宗教の知恵を自分なりに考える中で身に着けていくのならば「信」は「真」となり「力」になる。
 でも、「自分で」考えることを放棄したら、「自分の」人生を放棄したことになるのでは。すべての判断を他人にゆだねて「正」はない。「虚」となるだけ。自分から目を背けて逃避しているだけ。これで死を迎えるとき、自分に向き合うことができるのか。
 自問自答の始まり。

孤独だからこそ、自分が納得できる道を。

「自分なりの方法」で、自分の道を見出したいもの。
 この孤独地獄の状態で、気が付いていないこと。それは、同じ境涯の人が、たくさんいるということ。
「苦しんでいるのは、自分一人だけ、ではない」
「孤独の殻に閉じこもっているのは、自分だけ、ではない」
 実は身近な所に、たくさん自分のことを「話せない」人が。
 おかげで、お互いに気がつかないだけ。社会人の仮面の下で心の苦しみを抱え込み、もがいている惨めな自分をさらけ出せない。
『体面の鎧』を脱ぐことができない、人人人人。
 だから、若者が鬱で苦しむ時。実は「君だけじゃないんだよ」と伝えたいもの。『世界中の人』と『すべての世代』において、「私も同じ経験をしたんだよ」「実は私もなんだ」と思っている人が、たくさんいることを。
 なぜなら、苦悩は、人として生きる上で通る道。
 ただ、この道については、人により受け止め方が違うもの。
「道の深い浅い、遠い近い、ツルツルか凸凹か、迷路か直線か、山道か谷間の道か、高速道路か脇の路地か、私道か公道か、舗装がある為し、街道か裏道か」
 これらは、本当はどうでもいい。
『自分だけの道』という自覚がすべて。
 道の個人的な違いが、多々あるというだけ。

『未知の闇』にぶつかる

 求めれば、誰もがぶつかるのが『未知の闇』。始めは、すべての道が『闇』の中。
 人として『心』をもってこの世に生まれれば、いずれ『絶望』を感じる時がくる。そんな時こそは人生の大切な時。『心」そのものに気が付くのは、こんな時。
 この『心の闇』に佇み、自己表現ができないで孤独を貯め込む人が、どれほどたくさんいることか。
 まさに芸術や医療、福祉、インターネット、その他、あらゆる表現の場がコミュニケーションの方法が発展してきた究極の動機は、この『闇』と『絶望』にあるのでは。
 ただひたすらに、表現を通して『闇に光を』と、願い叫び呟くばかり。『心の闇』を抜け出すために。

『ありのままの自分』に気が付く

 闇の先に何があるのか。光の中に何を見出すのか。
 自分を見出すとは、「絶頂の喜び」の時か「孤独な絶望」の時か。
「発見の閃き」の時か「世界の創造」の時か。
「平凡な生活」の時か「思い出を振り返る」の時か。
 いずれにしろ、背伸びをせず、人まねでもない、等身大の自分なりの生き方の出発点に立ったとき、人はささやかな光を求めはじめる。

足もとに何を感じるか

 誰でも、一つだけ共通していること。
 「己の道」に立った時、まだ街灯にスイッチが入っていないこと。
 道が真っ暗なのが当たり前。たとえ真っ暗でも、自分の足で、すでに大地の上に立っていることに気がつくはず。
 だから、真っ暗だとて、絶望する必要はない。足もとに、すべてがあると。

光を求めて、一歩踏み出せるのか

 足もとに気が付いたなら、次は歩くとき。でも、急ぐ必要はない。歩きたくなったら歩くだけ。
 心配と不安が胸を締め付けるかも。
「つまずいたり、落とし穴があるかも、行きどまりだったらどうしよう」
 夜道を歩くときの不安は、誰でも同じ。
「街灯だって? スイッチなんか、わかるものか」
 では『月光』はどうか。
「空が曇って、月なんか見えないよ。街灯も月も、他人任せだ」
 じゃあ、やっぱり『懐中電灯』。
 これならあるでしょう。
「持ってないよ。あったって、電池が切れてたら、どうするんだ。買う金だってないし」
 文句ばかり。不満が胸に渦巻く。
 でも『懐中電灯』は自分で作るもの。やるか、やらぬかは、あなた次第。
「俺は疲れ切っているんだ。道を照らす明かりなんて、作る元気はないよ」
 では、そっと電柱に寄り掛かって、休んでみてよ。
 暗くてもできること。それは自分を休ませること。そっと手の平で自分の顔を確認してみよう。自分の唯一の本当の財産。これなら簡単。疲れもしない。
 さて、時が経つ。
 朝日が昇ってくる。 
 電柱で眠くなったいるころ、太陽が昇り始める。
 すると、大空から眩しい陽光が。

大地の力

 足もとの大地は、実は動き続けている。夜も昼も、休みなく。
 自分が死のうが生きようが、大地は一定の速度で動き続けるだけ。
 一定の速度だから、気が付かなかっただけ。
 たとえ夜中に電柱で休んでいても、朝日に欠伸をしても、大地が、自分を日の中に押し出してくれる。
 でも、出会う天気は、人様々。
 太陽が昇っても、人により空が曇っていたり、雨が降ってたり、嵐もある。でも、日中ならば自分の顔を見分けられるもの。
 水たまりでも、ガラスでも、自分が映っている。
 陽光の下、足元に自分の影が目に入る。

歩く時がやって来た

 影に気がつけば、影を踏んでみよう。それが一歩。歩き始め。一歩が二歩を生み出すもの。
 こうして自分で歩き始めたなら、『休むことを知っている自分』は、マイペース。
 人生の未完成な地図を片手に、動いている大地の上を、道なのか荒地なのか分からなくたって、とにかく歩くだけ。

歩きながら、見出すことは何か

 息をして、手を前後に振って、それから景色を見て。
 気がつくこと。
 周りにはたくさんの人が、自分と同じように歩いていることを。


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火山竜一  ( ひやま りゅういち )
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