岸本佐知子+柴田元幸 短篇競訳特集 おすすめです | 12-18(水)すしメロディ
かなり寒い。起きてmixi2のタイムラインを眺める。
MONKEY vol.34を読みながら出勤する。B5版のソフトカバーの雑誌は物体としてそこそこデカいので、朝の電車で開くなんて考えられないけれど、寝坊したから空いてる電車で堂々と読める。
"岸本佐知子+柴田元幸 短篇競訳"と表紙に書いてある雑誌が支度中にふいに目に入って、絶対よみたいと思ってカバンに入れたのだった。MONKEYは定期購読しているから何もしなくても勝手に届くのだけど、届いたものの梱包をほどいてそのへんに置き、そのまま時間が経ってほとんど山の中に埋もれていたから、見つけられてラッキーだった。まえにMONKEYで行われた2人の短篇競訳を一冊にまとめた『アホウドリの迷信』がとても好きなので、シリーズ第二弾となったら読むしかない。
そしてポロポロ泣いてしまう。電車の中なのに。六篇掲載されているうちの一篇に不意打ちをくらってしまった。読んでいる途中はよく出来た小説という印象で、出てくるモチーフの扱われ方についていろいろ考えることあるなぁ、とか思いながら読んでいたせいで、そちらに気を取られていた。予想していなかった角度から感動が差し込まれて、せりあがってくる涙に抵抗できなかった。
感想がぼんやりとしているのは、どういう理由で泣いたのかを書いちゃうとこれから読む人の読書体験を損なってしまう気がするから。もちろん泣いちゃうタイプの感動以外にもちゃんと面白さがあって、だからこそ飽き性のぼくでも最後まで読めたのだけど、その面白さも書くと作品を特定できてしまう。不意打ちは不意打ちで体験として残したい… 気になる人はMONKEYvol.34を読んでどれで泣いたのか当ててみてください。もしくはDMかなんかで直接聞いてください。
そのあと会社付近のコンビニに寄る。とくに買いたいものはなかったけど、一息つきたかったからミルクティーを買って店内席に座る。「荒野の果てに」のオルゴールミックスがかかっている。グローオオオオーオオオオーオオオオーリアーって歌われるあれ。クリスマスだね。
町田康+THE GLORYのアルバム『どうにかなる』の最後の曲が「荒野の果てに」だったのを思い出す。『どうにかなる』は引きこもり時代に何度も何度も聴いたアルバムだった。たしか、ニコニコ動画に表題曲の「どうにかなる」がアップロードされてたのを聴いてCDを買ったんだと思う。『駐車場のヨハネ』も一緒に買った記憶がある。引きこもりなのにどうやってCDを買ったのかと訝しむ方もおられるだろうが、車の免許くらい取れやと言われて親に渡されたお金で買ったのだ。だからぼくはいまも免許を持っていない。てかこのお金返さなきゃな…
『どうにかなる』はアルバム全体に聖書のモチーフが使われていて、曲「どうにかなる」にも飯屋とメシアをかけたダジャレがあったり、終末っぽい光のイメージがあったりするのだが、それらが"どうにかなんとかなるだろう"という歌詞が繰り返されるなかに差し挟まれる。
引きこもり当時は「このままでもどうにかなる」という楽観と「世界がひっくり返らないとどうにもならない」という絶望のあいだを行ったり来たりしていた。しかし、その楽観と絶望の両極はどちらも自分に対する諦めの上にあったのだった。「どうにかなる」は、そのような自分の状況と気分を完全に言い表していた。
当時の自分がいまの自分を見たら軽蔑するだろう。ぼくは、ある部分では変わり、ある部分では変わらなかった。ある部分ではどうにかなり、ある部分ではどうにかならなかった。けっこう元気に働くようになり、働いていない時間は知らない技術の概説を読んだり、ベストなココイチのトッピングを探したり、ヒトカラでストレス発散をしたりしている。要するにいまのぼくはちょっと先の自分に期待するようになった。
だから(?)きょうも無性にカラオケに行きたくなって、仕事帰りに家の最寄りのカラオケに行った。松浦亜弥「トロピカ〜ル恋して〜る」を一曲目に入れて立て続けに松浦亜弥を歌い、森高千里を歌い、モーニング娘。「シャボン玉」Berryz工房「あなたなしでは生きてゆけない」岡村靖幸「SUPER GIRL」「だいすき」小沢健二「愛し愛されて生きるのさ」「天使たちのシーン」などなどを歌った。ここだけ読むと平成に取り残されたにわかサブカル野郎といった選曲だけど、マカロニえんぴつを歌うというかなりキモい一面もある。← これはキモい一面もあると自己言及することでキモさが薄まっていると思ってるわけではなくて、ほんとうにキモい思っています。でも歌いやすい音域なんです…
そしてときどきデンモクで町田康も検索してみるのだけど、相変わらずぜんぜん入ってなくて悲しい。「どうにかなる」はもちろん「心のユニット」とか「朝日がポン」とか歌いたいんだけど、どれも入っていない。ないものはしょうがない。でもいつか「悔い改め」をカラオケで入れて、人間らしくしろよ… 人間らしくしろよ… 人間らしくしろよ… ヒューマンらしくしろよ… 働きものになれよ… ってぼそぼそ歌いたい。そしてクライマックスの 悔い改めてーーーーー!をデカい声で叫びたい。
あと、この"読書傾向"のツイートがずっとチリチリ燃えててかわいそうだった。
ぼくはこの元ツイの人と知り合いじゃないから"読書傾向"のツイートが自虐なのかなんなのかニュアンスがイマイチわからず、身内向けのツイートがコンテキストをしらない人に届いちゃうのが根本的にいろいろ言われちゃう原因だなあと思うけど、それってこの人にはどうしようもできないしなあ。
一方で、界隈の外から人が来ちゃってるのに頑なに界隈の語彙のモードを崩さないのはなんなんだろうとも思う。たぶんこの人は炎上して嫌だというわけでもないのだろう。だとしたらかわいそうと思う必要もないか。
ぼくもこういう本読むけど(件の人ほど露骨ではないが)、よく思うのは、人文系の趣味というのは令和の世では珍しく人に言うのがはばかられる趣味だということだ。略さんが同僚にzineを見せて「なんでつまらない小説書いてるんですか」と言われたことを日記に書いていたが、この雰囲気はよくわかる。というか、ぼくの場合は人生を通してほぼずっとそのようなタイプの嫌味をいわれて生きてきたので、むしろ世間というのはそれがふつうなんだろうと思っていた。人文に属する文章は書くことも読むことも気持ち悪いと思うのがふつうだし、「馴染みのない文章を読み書きしてるのを見せつけてきて、頭がいいマウントを取ってきたんだからとうぜん嫌味くらいは言い返す権利がある」と思うのがふつうなのだ。
実際、自分と近い関係のはずの自分とほとんど同じ形をした生物が、自分にも馴染みがあるはずの自然言語をつかって自分には理解不能なものを読み書きしていたら、その存在は不気味なもの(馴染み-でないもの=unheimlich)とフロイトが呼んだもののように立ち現れても不思議じゃない。もしクラスメイトが、友人が、生徒が、自分の子供が、恋人が、同僚が、そのように見えたなら、不安に駆り立てられ、否定し、しかし同時にニヤニヤせずにはいられないだろう。だからぼくは彼ら彼女らを責める気になれない。許さないけどね😉
人文がもっと一級の趣味になれば、市場も裾野も広がって新しい才能がたくさん集まる空間になりそうだとは思う。でも一方で、人文にまとわりついている特有のいかがわしさ、言い換えればメインストリームから外れていることが、人々が無自覚に前提としてしまっているものや思考不可能なもの、を、見るための、聞くための、触るための、考えるための条件であるような気もする。
という気もするのだが、しかしやはり界隈に引きこもって「わからないもの読み書きしてま〜す」と開き直るのはダサキモいので、広く市場にひらかれ、多くの読者に読まれるべきだという気持ちもある。難しい話だね。
あとさ、メモに「日記は雑居ビルであるべき」って書いてあるんだけどこれはどういう意味ですか?
すしメロディ
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