萬葉集の一千年
はじめに
古典は出来たときのものが出来たままに存在しているわけではありません。現代に至るまで、様々な時代と人の手を経て伝えられてきました。
『萬葉集』が成立してからの1000年間について、古典籍の諸本と伝本という視点から辿ってみたいと思います。
このnoteでは鎌倉時代以前までの流れを確認します。
鎌倉時代以降の内容については配信でお話しました(メン限なんですが)。
また、ファンボックスで全体の内容を公開しています。
萬葉集原本
『萬葉集』中で最も新しい歌は、一番最後の歌で、759年。
この頃の体裁は題詞も歌も高さが同じだったのではと考えられています。
天暦古点本
平安時代になると、平仮名が成立し、漢字だけで書かれた『萬葉集』は読みにくいものになってしまいました。
天暦五年に『後撰和歌集』の編纂と共に、『萬葉集』の読み解き作業が行われました。この事業が最初に公的に行われた訓読作業であり、『萬葉集』読解の嚆矢として重要な意味を持っています。
完成品は村上天皇に献上されたはずで、天皇に奏覧された清書本は、他の人が見ることはできなくなります。
この『萬葉集』が流布していったのには、撰者の手控えである中書本が書写されたのだろうと考えられています。
この時の体裁は説が二つありました。
仙覚が言う古老の伝説によれば、漢字本文の右側に振り仮名のように書かれる傍訓だったそうです。それが藤原道長のときに、彰子のために家経に書写させたときに、漢字本文の左側に行を改めて書かれる別提訓にしたと述べられています。基本的には、この説が信じられていました。
一方、伝存古写本の状態などから推しはかると、別提訓であったろうと考えられます。
仙覚が権威ある天暦時代の体裁が傍訓だったと主張したのには、それなりの理由があったと推測されています。(詳細は鎌倉期の説明参照)
法成寺宝蔵本
法成寺は藤原道長が創建した御堂で、そこの宝蔵本として『萬葉集』が収められていました。これが天暦中書本であったと考えられています。
『袋草紙』によれば、この法成寺宝蔵本を藤原俊綱が書写し、さらに藤原顕綱も書写したことで流布したと言います。
藤原道長の子の頼道は、宇治殿に平等院鳳凰堂を建立したことで有名ですが、この宇治殿にも萬葉集がありました。おそらく法成寺宝蔵本の転写本でしょう。
さらに、桂本萬葉集、孝言朝臣本萬葉集も、頼道と関係が深いことから、宇治殿御本の転写本と考えられます。
この頃の紙面と体裁
この頃の実際の紙面を確認していみると、題詞が高く歌が低く、漢字本文の次の行に、別行で平仮名の訓が書かれています。
これはちょっとわかりにくいですが、桂本と同じく、題詞が高く歌が低い、平仮名別提訓です。
藤原俊綱本
法成寺宝蔵本を写した藤原俊綱は、道長の子、宇治殿頼道の子でもあるため、縁故であったために法成寺宝蔵本の書写が可能だったのでしょう。
この時の体裁は不明ですが、後々の状態から遡って推測すると、『古今和歌集』の体裁に倣って題詞を低く歌を高くしており、巻二十の末尾九十首余りが欠落していたと考えられています。
讃州本
俊綱本を写したのが顕綱です。どちらも綱がついているので親子かと思ったら全然違うんですよね。
道長の別腹の兄である道綱の家系で、道綱―兼経―顕綱となっています。
世代的には俊綱と一緒なんですが。
古典の書写をよく行っていたようで、『萬葉集』もその一つでした。
讃岐入道と称しており、仙覚文永三年本奥書に見える讃州本が、この藤原顕綱の本であったと考えられています。
忠兼本
讃州本を写したものに、忠兼本があります。
忠兼本は、讃州本を底本として、江家本・梁園御本・孝言朝臣本の三本で校合を行ったものです。
さらに、巻二十末尾の九十首余りの欠落を、木工助敦隆本で補ったと言います。この木工助敦隆本は、越州刺史本で補ったそうです。
補ったということは欠落していたということですが、ではいつから欠落していたのかというと、親本である讃州本が既に無かったのだろうと考えられています。
この忠兼本の転写本に、天治本が現存しています。
この頃の紙面と体裁
紙面を見ると、題詞が低く、歌が高く書かれていることが分かります。
平仮名別提訓である点は前と同じですね。
この題詞と歌の上下関係は勅撰集である『古今和歌集』以降の体裁が影響していると考えられます。
雲居寺書写本
清水寺と八坂神社の間ぐらいにある高台寺付近にあったとされる雲居寺に、忠兼本は施入されます。
ここの香山房で書写されました。
ここまで見てきた『萬葉集』の訓はいずれも平仮名でしたが、これ以降、鎌倉時代に入ると訓が片仮名になります。
この平仮名から片仮名への変換点が雲居寺での書写だったのではないかと考えられています。
片仮名は漢文訓読に用いるために発達したもので、仏僧が主に用いていました。雲居寺で書写される際に、仏僧の手によって片仮名本へと変更された可能性があります。
その傍証として、以下の廣瀬本があります。
廣瀬本の体裁を見ると、題詞が低く歌が高い、漢字本文の次の行に別で示される別提訓です。ここまでは先に確認した忠兼本の頃の体裁と同じです。
ただ、異なるのは、訓が平仮名か片仮名かという違いだけです。
以降の伝本が片仮名訓本であることを考えると、廣瀬本が転換期の転写本に位置づけられ、雲居寺書写本がその転換点であったと考えるのが妥当ということになります。
おわりに
さて、以降、鎌倉時代に入って、愈々益々『萬葉集』は複雑な道を辿っていきます。
鎌倉時代に仙覚が繰り返し校訂を行い整えた『萬葉集』が、室町時代にはまた複数の伝本へと分岐し、複雑な現存伝本を生みました。
そうした流れについては、配信アーカイブやファンボックスにて公開しています。
また、全体を整理した年表系統図も高画質のものを公開しているので、是非チェックしてみてください。(めっちゃ作るのに時間かかった)