繊細・敏感・感受性豊かについて考えてみたけれどまとまらない話。

書いているうちにまとめきれなくなってしまった話。

どうにもこうにも体調不良でこの1か月ほどやる気がない。
困ったと思っていたのですが、いまだ復活できないというのか、なんというのか、体は問題なくて、きっと脳のせいというのか気持ちの問題なんだろう。
やりたい気持ちはあるのに、やれない。そんな状態なのだ。
心療内科とかに行ったら手っ取り早い気もするが、近所に行けそうなところがない。
取り合えず、必要最低限のことだけして、あとはリラックスというのか、ダラダラというのか…そんなこんなで何となく流れている気がする。

生きていればそんな時期もあるのでしょう。

どこかではそう思っているので何とかやれているのかもしれない。
なんてわけで、noteを書く手も止まっていました。
呟くより、長々とつらつらと自己満足したい気分なので、ちょっと下書きから引っ張り出してきたものを仕上げたいと思います。

いつものことながら、まとまらない長いお話になると思います。

ではでは

わたしは自分のことをHSPだと思っている。世界に対して繊細なのだ。
一方、息子は敏感だと思う。世界に対して全力で反応してしまう。

言葉遊びみたいだけれど、最近、ふと思い付いたので書いておこう。

これはわたしの個人的な見解で専門的な知識をもとにしてのものではないのであしからず。

さてさて、「繊細」「敏感」「感受性豊か」、これって同じ意味でつかわれているのだろうか?
なんとなく「敏感」というのはいいイメージではない気がする。
それよりちょっとイメージが上がるのが「繊細」けれど何か弱々しい気がする。
そして、なんとなく素敵な感じが「感受性豊か」だ。

言葉の持つ本来の意味とイメージ。
時としてそれは大きくかけ離れてしまうこともある。
時々は知ってる言葉でも、よく使う言葉でも立ち止まって調べてみると意外な発見があったりする。
と言うわけで、goo辞書さんのお世話になりましたところ

敏感:感覚や感度の鋭いこと
繊細:感情などが細やかなこと
感受性:外界の刺激や印象を感じとることができる働き

goo辞書

なるほど、その言葉自体にはいいイメージも悪いイメージもない。
同じように使っていても結構、本来の意味としては違う感じもする。
言葉って当たり前に使っているけれど調べてみないと分からないこともたくさん…勉強、勉強。
さてさて
次はこの言葉に対するわたしの考えたイメージ。

自分の周りの空間に何かしらある刺激を〇とすると

敏感というのはこの〇がどんなに小さくてもキャッチしてしまう。
つまりは普段の生活では気にしなくてもいいようなことまで受け取ってしまう。なので敏感ではない人と受容量が同じでも、たくさん受け取ってしまうので処理できる限界がすぐにやってくる。

繊細というのは受け取った一つの〇をさらに細分化してしまう。
つまりは一つのことなのに二つ、三つと〇の中を分けてしまうので、一度にたくさんの丸がやってくると処理できる限界を超えてしまう。

感受性豊かなのは小さな一つの〇を大きく膨らませ感じることができる。
つまり、許容できるサイズの場合、余裕があるが、サイズオーバーになったときはあふれてしまう。ただし、大きくしたものは小さくもできるのでバランスがとりやすいのかもしれない。

こんなところだろうか。
何か研究しているわけではなく、家事の片手間で考えているので、何の根拠もない。
けれど、自分の中で府に落ちる落としどころを探しているとこんな感じになる。

で、わたしははたして敏感、繊細、感受性豊か。どれに当てはまるだろうか。
敏感で繊細といったところだろうか。

皮膚感覚というのか物理的な受け取り方としては敏感なのだろう。
なんてったって洋服の縫い目がダメで、肌着は完全無縫製。煙もダメ、薬剤や化学物質にも過敏(使えない薬がある)。昔から粘膜系が弱いと言われている(乾燥するとすぐに鼻血が出ていた)。極めつけは自分の汗にかぶれる…これは厄介極まりない。最近、アレルギー検査をしたら、どうやら皮膚にいる常在菌にアレルギー反応を示しているらしい。ミネラル成分を含んだ化粧品やオーガニックとかハーブ系のもので作られた化粧品もほぼ、使えない。湿布を数時間貼っただけで、湿布の跡が…挙げればきりがない敏感さです。何か利点はないかと考えたのですがおそらく味覚に敏感だと思います。薄味で平気です。無味無臭だと言われるものでも味を感じてしまう時があります。料理が好きだったらきっと活躍できたに違いありません。
でもやっぱり敏感って厄介な感じがする。

繊細な方はというと、こちらは自分でそれなりにコントロールできている気もする。過緊張、あがり症ということもあるので、余計にかもしれないけれど、人が多い中では目立たぬように、ひっそりとしている。なんなら壁と一体化してしまうような感じでいる。そうすると、人混みの中ではザワザワしている感じだけで、ダイレクトに人からの意識を受け取らなくて済むので、疲れてもダメージは少ない。
ただし、何かしら意見を求められたりしたら、応えてしまうのが自分としては残念な感じなのだけれど、発言で目立ってしまったら仕方がない。少々個性的な面があるので、気づくと目立ってしまうこともあるけれど、そんな時はせっせと空気を読んで、何とか立ち回って、集団の一歩外にいる感じで落ち着くことができる。
八方美人的な感じでちょうどいい。と思っている。
付かず離れず人づきあいは腹五分、六分といったぐらいが胸やけせずに済む。と言い聞かせて、うまく自分の繊細さと付き合っていると思う。

いづれにせよ、子どもの頃に比べると鈍感にもなり、多少のことでは動じなくなってきたようにも思う。
今でも、人が集まるところに行って帰ってきた夜は眠れない。興奮してしまうのか、自分とは関係のないところでされている会話の声が耳元で聞こえて来たりするのだけれど、これも致し方がない。
PTAの活動、保護者会、参観日、面談、電話などなど、落ち着かない日々。続くと眠れなくなる、汗が凄いなど、きっと交感神経が興奮しやすい性質なのだろう。
うまくバランスをとって過ごせるようになりたいものだ。

ここまで書いていて、結局、自分のことじゃないかと突っ込んでみたりしているけれど、

わたしは感受性豊かだろうか?そんな疑問にぶつかった。

あるものから受け取ったイメージを膨らませて、自分の世界の中で新たに何かを作り出す。
感受性が豊かとはそんなことだろうか?

創造力の源のような気もするけれど、よくよく考えると感受性が豊かってそんなにいいイメージでもない気がする。
何かにひどく感動して泣いたり、感情をストレートに表現したり、どこか浮世離れした人ってイメージもなきにしろあらずだ。
わたし一人、静かに、何か好きなことに触れている時は感受性豊かだけれど、それを素直に表には出していない気がする。
感受性豊かというよりはおおらかとか天然とか言われてしまうような感じなので、感受性豊かではないということなのだろう。

ここまで書いてきてなんですが
敏感でも繊細でも感受性豊かでもなんでもいいじゃないかとふと思ってしまいました。
いったいわたしは何をしているのでしょう?

なんとなくゆったりゆっくりいろいろと考えてみたくなったのです。
最近はうまく時間を使えずに、ぐったりしているとあっという間に時間が過ぎてしまうのです。
何かしなければと思いつつ、思うように体が動かない。
無理して何かする必要はないのですが、
必要最低限のことしかできなくて、もうぐったりです。
一体、どうしたものなのか。

燃え尽きるほどのことはしていないので
燃え尽き症候群ではないだろう。
きっと小さな疲れが回復せずに溜まってしまったのだろう。

なんだかまとまらないというかまとめられる気配がない。

この話は一旦、ここで終わりにしよう。

またゆっくり考えてみよう。

そんなことばかりを最近は考えている羊でした。


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羊
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