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「香春」 ちびすけ

「香る春」と書いて「かわら」と読む、のどかな名前の母の故郷は、石灰石の採掘で異様に削り取られた灰色の山がそびえる、子供には少々退屈な田舎町でした。
年に一、二度訪れる祖父母の家は、門を入るとすぐ右側に三畳ほどの簡素な小屋、左側奥になかなか立体的に造られた小さな庭があって、裏には百本近い梅の木がありました。
妹と私はまず庭や梅園をぶらぶらして、飽きると母にせがんだ小銭を持って、小屋に遊びに行きました。カタカタと小屋の引き戸を開けると、おばさんがぼんやり座っています。挨拶をして靴を脱ぎ、畳の間に上がると、壁一面にぐるりと本棚がありました。本棚には小ぶりな本が不揃いな様子で並んでいます。不思議なことに、祖父母宅の敷地内には小さな貸本屋があったのでした。
幼い子供に向けた本などありませんでしたが、どうにか漫画本を見繕って何十円か払うと、家で読めばいいのに、そのまま畳に寝転がってページをめくるのが常でした。文字もよく読めない年頃だったので、面白くて夢中になった訳でも、かといっておばさんに懐いていた訳でもありません。ただ他に行く所もないので、本に囲まれてページをめくっているうちに、なんとなく楽しいような心持ちになっていたのでした。
いつの間にか貸本屋は姿を消し、祖父母も早々とこの世を去って、そのうち道路拡張とかで小さな庭も梅の木もなくなってしまいました。あの灰色の山でさえ、今ではほとんど削り取られてしまったそうです。


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