
シンガーソングライターが書いたエッセイが好きだ①/『悲しくてかっこいい人』イ・ラン
シンガーソングライターの方が書いたエッセイが好きだ。
そもそもエッセイ自体が特別に惹き込まれるものがあるのだけれど、どうしてかシンガーソングライターの方が書いたものは強烈に記憶に残る。まるで自分が体験したかのように。
近年で一番心に残っているのは、文学・映画・イラスト・音楽といった多岐にわたるジャンルで活躍する韓国のアーティスト、イ・ランさんの『悲しくてかっこいい人』。
仕事をして疲れる。でも曲を作り歌い続ける。恋人と別れる。好きな人ができる。人と関わり嬉しくなる、そしてひどく悲しくなる。
全体的に悲しみに焦点が当てられている印象で、しかしそれは彼女自身の中で決して悲観的ではない調子で描かれていた。まるでそのまま歌詞にしてしまうように。
“悲しみ”という一般的にネガティブとされている感情に対して、わたし自身あまりマイナスなものだと感じない。良くも悪くも。ほかと違って変な感情回路なのかと戸惑ったりした気持ちが、よみおわったあとに慰められた気がした。
片想いをして想いを伝えられず辛かった日。大好きな人に傷つく言葉を放たれて深く落ち込んだ日。考えすぎて無性に悲しくなる日。どの日の悲しみにおいても、ひたすら泣く、泣く、泣く。
けれど、その感情にまみれてる時でさえ、いらないものだと思えなかった。それもすべてがわたしの友だち。詩を読んだ時に、そこにある真実を探るような。上手く説明ができた気がしない。
おそらく自分とは違う感覚の誰かには、「そんなに振り回されて何が楽しいの? 馬鹿みたい」と言われてしまいそうだ。
もちろん振り回されてる。自分でそういう状況を馬鹿馬鹿しいと思うこともあるし、好きでそういうふうになっているわけではない。けれど、いざ悲しみに身を置くと、自分の意識が外側からそれを見て、ほかの人の物語を覗くように、悲しみを噛み締めている。そして、自分の身体はひたすら涙を流し、声を上げることもあり、なぜかそれに心地良さすらある。
……気持ち悪いと思う方もいるかもしれないので、このくらいにしておく。
とにかく、彼女の悲しみへの付き合い方に、自分と似た捉え方や流れ方をみた気がした。「こんな変な感情で生きている人、わたしのほかにいるんだろうか?」と辛くなった日々が、すっきりと洗い流された感覚があったのだ。
タイトルにも紐づく有名な一節があり、それが彼女の日々の感情との付き合い方を物語っている。
悲しみだ 悲しくて やさしい
かっこいい人になろう
嬉しくて幸せな人にはなれないから
悲しくてかっこいい人になろう そうなろう
この言葉を読んだ時、「そうか、そういうふうに思っていいのか。わたしもそうなっていきたい」と、共感と安堵で涙が出てきた。悲しくてかっこいい人。なんだか滋味深さがあって、とても素敵だ。それに、そういうふうに悲しみと付き合っていくのは、自分の性に合っているような気がすると。
日々誰かと関わったり仕事するうえで感じる悲しみも、友だちにしてみる。過ぎ去った時には、「あんなやつもいたなあ。憎めないな」なんて笑えているかもしれない。