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Inferiority complex

劣等感とは何か?劣等感とは他者との比較において自身が他者よりも劣っていると思うことと解釈されることが多いが、本質的には少し間違っている解釈である。

劣等感とはより詳しく表すなら自己への信頼の欠如である。より平たい言葉でいうなら“ありのままの自己の否定”である。

 

心理的に健康な人は他者と自身の比較において相手が自身より優れていれば尊敬の念や、敬意が生まれる。逆に自分より不幸な境遇だなぁと思えば、相手はそんな中頑張って生きているのだから自分も頑張ろうと思うことに違いない。

 

しかしここで先に書いたように劣等感、あるいは優越感を抱くような人の場合は先ず物事に対しても、自身に対しても要求水準が高いことを表している。今の自分に満足しないという考え自体聞こえはいいが、単に直訳すると現状に満足していないということである。または現状への満足を許せないということになる。

 

常に上へ、常に高みへという言葉に隠された危険とは現状に満足してはいけないという現状維持への恐れそのものにある。人間は動物である。

だから本来は子孫を残し、家族を守り、食事と寝床を確保し、健康が守られれば言うことはない。しかしそれを許さないのが競争社会となった現在の社会生活そのものである。

 

私は人間が劣等感を持ってはいけないというような印象を与えかねない例を列挙しているようであるが、実は本来劣等感をなくすことは出来ないということが分かっている。劣等感はそもそも自然な感情であることに注意を払いたい。

 

重要なのは劣等感を感じた際に、それを受容できるのかどうかという点である。誰しも他者と比べて落ち込んだ経験があるはずである。


しかし、その際にその劣等感を受容し成長に繋げられる人と、深刻な劣等意識によって他者に優越することが最優先になってしまう人がいる。前者を心理的健康者、後者を心理的不健康者と表せば多少理解が進むのではないだろうか。

 

また抱いた劣等感を受容するとはどういう事かというと、ありのままの自分を認める姿勢を持つということである。アメリカを代表する心理学者のシーベリーいわく自己への基本的態度という考え方がある。それは言い換えると自分をどのようにして愛するかと言う姿勢のことである。人は生まれ持った容姿や性質を変えることは難しい。

 

整形や自己啓発にも限界がある。整形も度を越せば生まれ持った骨格や体の部位の良さを殺してしまう。自己啓発による行動も度を越せば普段の行いと違うのだから摩擦を生んで苦しくなることもある。だから人間は与えられたものの中で、いかに知恵を生んで豊かに暮らすかかが重要なのである。

 

他者よりも優れることは努力すればたやすいが、自己を愛しぬくことは血のにじむ努力が必要な人もいれば、ご飯を口にするほど容易い人もいる。その差は劣等感が深刻かどうかという点にある。

 

ちなみにありのままの自己を愛せる人というのは、この社会においてとても恵まれている。と言うのも、そのような自己になることを許される環境で生活していられるからである。

ありのままを許される環境というのは生まれながらにして手にする幸運な人もいれば、不遇な環境の中でも自身の力でその環境を作り出すような素晴らしい人もいる。

 

この素晴らしい人の能力は状況への適応能力(resilience)が高いという。レジリエンスとはより平たく言うなら、どのような環境においても成長への選択ができる能力そのものの事を指す。これは並大抵の努力では成しえない。


例えば幼少期に父から暴力を受けて育ったとする。これは誰がどう見ても不幸。毒親の元に生まれたら、その運命を呪うしかない。

しかし呪ったままでは生きていかれない。もう少し厳密にいうなら生きてはいかれるが、心理的ストレスに常にさらされることになる。

 

人間は風邪をひいたら具合によっては働けないが、調子がそこまで悪くない風邪なら多少は無理してでも働ける。それと似ているが運命を呪い続けながら生活してれば心は常に風邪である。


ちなみに私は以前の職場で人間関係でもものすごく苦しんだ。あとから精神科医にうつ状態だと診断を受けたが、自分がうつ状態であるとは自覚が全くなかった。人は自分がうつ状態であるとは認識できない。


うつ状態になると自覚できないからうつ状態なのである。それは潜在的に心が常に風邪であることを表しているに過ぎないのだが、私は当時人間関係の不始末は自分のせいだと思い込んでいた。しかし今思えば当時私は周囲の人間に怒りを覚えていた。


より自身の潜在意識に目を向けると、私は確かに周囲の人間に敵意を抱いていた。私を苦しめてくる人間たちに怒っていた。

 
しかしそれを抑圧し、自分が悪い。の一点張りで仕事をしていた。これこそシーベリーの言う自己への基本的態度を見失ったということが理解の進む例になるだろう。

つまり自分を大切にする、ありのままの自己を受け入れるという事は、どんな感情さえも自然に生まれてくるものであって、それを受容し許すことなのである。

 

人間怒りを溜め込めばいつか爆発する。それが癇癪。しかし社会で生活していれば我慢しないとうまくいかないという人がいる。

私から言わせればその人が我慢しないと働けない環境で仕事をしているだけである。世の中にはこれでもかと言うほど窮屈な人間関係のなかで働く職場もあれば、一方で不平不満の少ない環境で働ける職場も存在する。その違いは何か?それがありのままの自己を許された環境なのである。

 

わかりやすい言葉で表現するなら同族嫌悪という言葉がある。同じ性質を持った人が揃うと互いに嫌悪感を持ってしまうという言葉を表したものである。同族嫌悪とは相手の潜在意識に眠る劣等感を、自身の中にも眠る劣等感を通じて反応してしまうことである。それを投影と呼ぶ。

 

投影とは心理学の用語で、相手の中に眠る心理的課題を通じて自分の心理的課題を相手の心理的課題として問題化してしまうことを言う。

人は自殺するとき、自分を憎んでいる。このことへの理解が進まないから殺人も自死への理解も進まない。

 

昨年、芸能人の自殺が相次いだ。周囲の関係者も友人も視聴者も彼らの人となりを称えていた。礼儀正しくて真面目で誰からも愛される努力家であったと。

しかしあとになって下世話な週刊誌によって彼らの周囲の人間たちが詐欺師であったとか、家族と揉めていたとかとういうような事実が出てくる。これらの事実が自殺の要因なのではとささやかれる。

 

確かに合点がいく。真面目で礼儀正しい人が疲れて自殺するのではない。真面目で礼儀正しくしていないと隠せない本性があった。それは怒りである。何も彼らは悪いことはしていない。ただ怒っていた。

その怒りの感情を自分が認めたくなかった。何故なら真面目で礼儀正しい自我像を体現していたからである。世間に自分は怒っていることがあると言えていたら違った道があったはずである。

 

つまり自殺する人は世界に絶望して死ぬのではない。自分への深刻な劣等感や怒りを隠し続けるのに疲れて自殺するのである。だから遺書を書くのである。

ただ死にたいならそのまま自殺する。でも遺書には死んだ後に遺書を読む人たちが自分の事をどう思うかが重要だから遺書を書く。遺書は隠された怒りのメッセージである。

 

最後になるが自分がもし劣等感があってそれによって怒りを抑圧しているのかもしれないと気づくことが出来たら、まずは自己への基本的態度を改める機会がきたと深く自覚しないといけない。ピンチはチャンスという言葉があるが、chanceとは機会の事である。

自分は怒っていたのだと認める。自分は怒る資格がある。自分はずっと隠していたけれども、もう隠さない。大事なのはありのままの自分でいる事。それを認めてくれない人間が周囲に集まっているなら思い切って会社をやめてもいいのである。

住む場所を変えるか、付き合う友人を変えても良い。たとえ独りぼっちになってでも自分の身を置いた環境を変える必要がある。

 

それが心理的に健康になるということである。人との摩擦を恐れない。嫌われる勇気を執筆した心理学者アルフレッド・アドラーはこれが言いたいのではないだろうか。 

先にも書いたが人間は食事をして、自分たちの身体と心を休める寝床があればいい。生きていればいい。決して自殺してはいけないのである。近年では安楽死や自殺に対して理解が進むようになってきている。

安楽死の是非や自殺に対しての他者の解釈を改めさせようなどとはつゆも思わないが、ありのままの自分になることを禁じて自殺する人たちの事を私はまだ受容できずにいるのかもしれない。

 

1999年に公開されたアンジェリーナ・ジョリー主演の「17歳のカルテ」にこんなセリフがある。

 

「カミソリは痛い、水は冷たい、薬は苦い、銃は違法、縄は切れる、ガスは臭い、生きてる方がマシ。」

 

 執筆 : 一青 成

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