「Cloud」鑑賞後メモ
今年に入ってから劇場公開された黒沢清作品は「蛇の道」と短編作品である「Chime」、それから本日公開された「Cloud」の3本なのだけれど、それらの内容を比較しながら観ると、まずわかりやすく浮上してくるのは母性と父性の二項対立の構図であるように思えた。「蛇の道」の主人公である柴咲コウの役柄と「Cloud」における奥平大兼のそれを通して、その両極について少し書いてみる。
喪失による深い悲しみと怒りを原理に思考や行動を展開する「蛇の道」の柴咲コウ扮する小夜子は母性のある種究極的なあり方を示していて、男性(性)が支配する社会構造に対して端からそこに必要以上に近づかず遠くから状況を把握し、殺し合いは男同士でさせているような印象を受ける。要は、「男のためのゲーム」に参加することの無意味さ、虚しさを最初から知っているが故にそれに対して有効な振る舞いを行うことが可能であった、ということなのではないか。
それとは対照的なのが「Cloud」における奥平大兼扮する佐野だ。彼が有しているのは母性というよりは主人公の菅田将暉扮する吉井に対する義理、道理のようなものであり、それはある意味では「男のためのゲーム」を駆動させる原理としても考えられないだろうか。それは例えば雇用主と労働者の関係性を成り立たせる、肉体と時間の拘束に対して支払われる賃金のようなものであるだろうし、こと佐野においては転売屋業務のアシスタントとして雇ってもらったことに対する吉井への恩義が行動原理としてあるのは間違い無いだろう。ただ、そういった彼の感覚には先述の小夜子が有するような母性的なしなやかさはおそらく皆無で、ベースにあるのはあくまで損得勘定であるが故、ラストのとある行為に何のためらいもなく及ぶことが出来るのだろう。徹底的な断絶の力=父性として、佐野は描かれているというのが個人的な印象だ。
では、肝心の菅田将暉は果たしてどちら寄りなのか、というところが今作の主な推進力として機能しているのかなとは思うし、今作においてただひとり女性(性)を体現する古川琴音扮する秋子が辿る道筋もまた興味深かった。彼女は完全に「男のためのゲーム」の外側に立って物事を見ることが難しい立場であったのだろうということであり、実際それも彼女が有する母性がひとつの要因にはなっていたのだろう。また、そういった各人物の人間性を銃の扱い方で端的に描き出していくような演出も非常に象徴的だ。
もうひとつ、特にアイロニカルな顛末を辿る人物は「Chime」に繋がりがあるのだけれど、これには登場の瞬間素直に驚いた。この人物が体現するのは、先述した両極のちょうど真ん中に位置するような、言ってしまえば「何者でもない人間」であるのだろうし、それは実際この文章を書いている自分を含め多くの人が近い立場にあるようにも思えるのだけれど、本当に見るに耐えない有様になってしまうので逆に笑えてくるような気がしなくもないが、やはり辛い。今年の黒沢清の3本はどれもズシっと、半端ではない重みがある。現代社会に対しての彼の素直な雑感、ということではあるのかも知れないけれど、突きつけ方には容赦がない。
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