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両親の老いに向き合う

ひとり親14年目を迎えて

離婚当時は5才だった娘も19才となり、同居する両親も同じように年を重ねている。いつの間にか、79才の母と84才の父は老いていた。
背はちぢみ、筋肉が減り、足腰が弱る。目が悪くなり耳も遠くなるし、臓器にも不調がでてくる。
性格にも変化が見え始めた。
普段から無口な父は、いっそう無口で反応が薄くなる。
逆におしゃべりな母は、いっそう激しく喋り尽くし、口調も尖ってきた。話の大半は、家族への不平不満と健康関連で、日々、同じ内容がループする。
家族の不平不満をきくのは、いい気がしないが、少しでも批判的な意見を言おうものなら、倍返しの罵倒が浴びせられるから、何も言わずに聞いている。(というより、聞くふりをしている)

両親の老いと向き合う覚悟

昨年末は、私のインフルを母に移してしまった。
以降、咳を少しでもしようものなら、ばい菌扱いとなる。体調を気遣うと、返って勘にさわりキレられる。
全てが悪い方向へ流れ、ムカムカとした最悪な年越しとなった。
私たちの険悪ムードを察知したのか、父親は年始の挨拶で「家族みんな仲良くすごしましょう」と付け足した。
帰省している兄は、私と母の伝書鳩のように立ち居振舞う。
食事の時だけ集合して、そそくさと退場した。

起伏が激しく刺々しい母の態度が、老いのせいだと薄々気づいてはいるけれど、感情が処理できない。

老化って残酷だ。
本人のようで本人じゃなくなる。
笑顔のかわいい母も、時には別人のようにみえ、ヒステリックでささくれ立っている。

両親の『老い』と向き合う、その入口にきたんだと悟った。

わんこが教えてくれた後悔

数々のライフイベントを迎えてきたが、死を迎えるその日ばかりは、当の本人は、そこにいない。今までいた人がいなくなる。その感覚は何度経験しても慣れないし、慣れることはない。

わんこが亡くなった時、生前の後悔が残った。
もっと耳を傾ければよかった
もっと触れ合えばよかった
もっと一緒の時間をとってあげたかった
もっと喜ばしてあげたかった
もっと大事にしたかった
もっと美味しいごはんあげたかった
もっとクーラーつけてあげたかった
もっと手を尽くしたかった

もっと、もっと………が次々と出てくる
死の後では、何度思っても何もしてあげれないと、わんこに教えられた。

大きくゆれる心の葛藤と共に

心を入れ替えて母に向き合い、どっと疲れて自室へ避難することを繰り返す日々。ご近所さんとの比較話や家族の愚痴。最後は私の健康への指導、というか指示命令でおわる。ありがたいと素直に聞き入れられない、そんな自分が、ダメだなとも思う。
もっと、大きな心で受け止めれたらいいのに。
天国のわんこも眉間にシワをよせているだろう。

まだ私たちは地上にいるんだから、この『もっと…』は、挽回できるんだ。最初からうまくいくとは思わなくていい。悩み葛藤し、今は今の絵を描き、ダメなら、また考えてかきかえればいい。

天国のわんこに、喜んでもらえるように。『もっと…』が届く相手が、ここにいる幸せを見失わないよ。

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