先日滋賀県大津の大津祭に行ってきました。
京都人だとついつい「鉾」と言ってしまいがちなのですが「曳山」の迫力とそれに乗って勇んで笛や掛け声を響かせる人達に「非日常」の風情を感じていました。
さて「非日常」についてフと思い出したのは「ハレ」と「ケ」という世界観。
最近あらゆる場面において、このハレとケの思考モデルが当てはまるのではないかと思い、今回はフェリス女子大学元教授の春木良且先生より着想を得て記事にしてみました。
最後の講義録は単なる私のメモ(長い!)ですのでご興味がある方のみどうぞ。
ハレとケとは何か
ウィキペディアではこのように説明されています。
民族学者の大家、柳田國男氏により見出された概念なのですね。
ケガレはケが枯れる?
それでは、ハレとケの関係はどうなっているのでしょうか?
両者に優劣があるのでしょうか?、
これもウィキペディア先生に聞いてみましょう。
ハレよりもケ
ここで春木先生から気づかされたこと。
春木先生はハレよりもケに注目しているそうです。
理由はハレは記憶や記録に残りますが、ケは意識しないと消えてしまうから。
また人生におけるハレの場なんてごく一部であり、私たちは人生の大半をケの世界で生きています。
ハレとケの関係ではハレとケに優劣はありません。
ケがあるからハレがある。
ケが枯れるケガレからケを回復させるためにハレがある。
それならハレはケのために存在するとも言えます。
そう考えると日々忘れ去られ、記録にも残らないような「ケ」はなんとも尊いものかと思います。
インターネットの世界はハレに溢れている
春木先生のご専門は情報倫理・情報哲学です。
春木先生はインターネットの世界はキラキラした世界や美辞麗句、ハレに偏重した情報に溢れているといいます。
そりゃそうですよね。
誰だっておいしい食べ物を食べたいですし、リゾート的な場所には憧れます。そしてポジティブシンキングで自分を奮い立たせたい。
そういう情報が集積するのはごく自然なことです。
しかし、そんなインターネットのハレの世界に気をとられて、目の前にある「ケ」の世界、ごく当たり前の中にある尊い世界に目がいっていない、と大切なことを取り逃してしまう恐れがあります。
子育てにおける「ケ」
晴れがましく楽しい「ハレ」に対し「ケ」は野暮ったく頼りなくイライラが募る。
例えば、出かけるときに、なかなか自分で靴を履かない4歳児笑
野暮ったい時間についついスマホを手にしてしまうのですが、なんでもない時間の中に、子の成長があったり、写真にも残らない子供の表情がこの瞬間にしか二度と見られない表情であるかもしれない。
ケはハレと同等に尊いと聞きはっとしました。
自戒ですが、スマホを置いてもっと子供と向き合いたい。子供の見て見て聞いて聞いて!にも、もっと真剣に聞いてあげたい。
べき論などではなく、自然とそう思えるようになりました。
ハレとケと経営
子育てだけでなく経営にもハレとケの思考モデルが生かせるのではないか。
事業を良くするためのセミナーやコンサルは、いわば「ハレ」です。
しかし現場に戻れば、山積の仕事があり、顧客からのクレームがあり、、。ケの世界の方が逃げられない真実です。
ハレとケを行き来する。
つまりケが枯れ(ケガレ)、ハレで得たヒントをケ(事業での日常)で生かす。
このサイクルがないと、セミナーなどでどんなに良い話を聞いても、コンサルに入ってもらっても、発展はない。
日常こそが尊いということは経営にも当てはまっていると思ったことから書留めてみました。
まとめ
長くなりましたが、言いたかったことは「ケ」の日常こそが尊い、ということです。
ついついおろそかにしがちな、身の回りの何気ないものをもっと大切にしたいと思いました。
おまけの講義録
以下は私が過去に有斐斎弘道館で「神幸祭 -カミの道行きと神輿の発達史-」と言う講座を受けたときの私の講義録。
ご興味ある方は参考にどうぞ。