
「ハレ」と「ケ」とネット社会 〜日常こそが、尊い〜#87
先日滋賀県大津の大津祭に行ってきました。
京都人だとついつい「鉾」と言ってしまいがちなのですが「曳山」の迫力とそれに乗って勇んで笛や掛け声を響かせる人達に「非日常」の風情を感じていました。
さて「非日常」についてフと思い出したのは「ハレ」と「ケ」という世界観。

最近あらゆる場面において、このハレとケの思考モデルが当てはまるのではないかと思い、今回はフェリス女子大学元教授の春木良且先生より着想を得て記事にしてみました。
最後の講義録は単なる私のメモ(長い!)ですのでご興味がある方のみどうぞ。
ハレとケとは何か
ウィキペディアではこのように説明されています。
民族学者の大家、柳田國男氏により見出された概念なのですね。
ハレとケとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。
民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレは儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケは普段の生活である「日常」を表している。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
ケガレはケが枯れる?
それでは、ハレとケの関係はどうなっているのでしょうか?
両者に優劣があるのでしょうか?、
これもウィキペディア先生に聞いてみましょう。
「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」の関係のモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」であり、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復すると唱える説が桜井徳太郎の循環モデルである。
ハレよりもケ
ここで春木先生から気づかされたこと。
春木先生はハレよりもケに注目しているそうです。
理由はハレは記憶や記録に残りますが、ケは意識しないと消えてしまうから。
また人生におけるハレの場なんてごく一部であり、私たちは人生の大半をケの世界で生きています。
ハレとケの関係ではハレとケに優劣はありません。
ケがあるからハレがある。
ケが枯れるケガレからケを回復させるためにハレがある。
それならハレはケのために存在するとも言えます。
そう考えると日々忘れ去られ、記録にも残らないような「ケ」はなんとも尊いものかと思います。
インターネットの世界はハレに溢れている
春木先生のご専門は情報倫理・情報哲学です。
春木先生はインターネットの世界はキラキラした世界や美辞麗句、ハレに偏重した情報に溢れているといいます。

そりゃそうですよね。
誰だっておいしい食べ物を食べたいですし、リゾート的な場所には憧れます。そしてポジティブシンキングで自分を奮い立たせたい。
そういう情報が集積するのはごく自然なことです。
しかし、そんなインターネットのハレの世界に気をとられて、目の前にある「ケ」の世界、ごく当たり前の中にある尊い世界に目がいっていない、と大切なことを取り逃してしまう恐れがあります。
子育てにおける「ケ」
晴れがましく楽しい「ハレ」に対し「ケ」は野暮ったく頼りなくイライラが募る。
例えば、出かけるときに、なかなか自分で靴を履かない4歳児笑
野暮ったい時間についついスマホを手にしてしまうのですが、なんでもない時間の中に、子の成長があったり、写真にも残らない子供の表情がこの瞬間にしか二度と見られない表情であるかもしれない。
ケはハレと同等に尊いと聞きはっとしました。
自戒ですが、スマホを置いてもっと子供と向き合いたい。子供の見て見て聞いて聞いて!にも、もっと真剣に聞いてあげたい。
べき論などではなく、自然とそう思えるようになりました。
ハレとケと経営
子育てだけでなく経営にもハレとケの思考モデルが生かせるのではないか。
事業を良くするためのセミナーやコンサルは、いわば「ハレ」です。
しかし現場に戻れば、山積の仕事があり、顧客からのクレームがあり、、。ケの世界の方が逃げられない真実です。
ハレとケを行き来する。
つまりケが枯れ(ケガレ)、ハレで得たヒントをケ(事業での日常)で生かす。
このサイクルがないと、セミナーなどでどんなに良い話を聞いても、コンサルに入ってもらっても、発展はない。
日常こそが尊いということは経営にも当てはまっていると思ったことから書留めてみました。
まとめ
長くなりましたが、言いたかったことは「ケ」の日常こそが尊い、ということです。
ついついおろそかにしがちな、身の回りの何気ないものをもっと大切にしたいと思いました。
おまけの講義録
以下は私が過去に有斐斎弘道館で「神幸祭 -カミの道行きと神輿の発達史-」と言う講座を受けたときの私の講義録。
ご興味ある方は参考にどうぞ。
もともと「祭」という字は下の「示」は「祭壇」、左の「タ」は供物、「又」は人の「手」で構成されているといいます。
日本人は古来より天地万物に目に見えない神々が宿るとし、天変地異など人智を超えたこと、つまり「良いこと」も「悪いこと」も神々の思し召しであると考えてきました。
そんな人間生活には「ケ」と「ハレ」があり、「ケ」が枯れた状態が「ケガレ」とされ、それを「復活」させるのが「祭り」というわけです。
ここで注意しなくてはいけないのは「ケガレ」はよく「けがらわしい!」とかいう「穢れ」とは違い、あくまで「ケ」が枯れた状態のこと。 その「ケ」を落とす行為が、よく神社などで手水で手を清めたり、茅の輪くぐりで「潔斎」して「秩序」を保つ行為だそうです。
お祭り、というのは「神事」ではなく「神賑行事」であり、
丁重に丁重に厳かに・・・ではなく、神を祭り上げ、町全体が「どんちゃん騒ぎ」をして、
「ケ」を回復させること。「秩序」の反対で「混沌」で日常を取り戻す行為です。
逆に厳かに神様を崇め奉る・・のが「神事」ですが、
神事は「ケ」に対して「ハレ」の行為になります。
「ハレ」とは非日常であるのに対し、「ケ」が日常であり生産活動でもあります。
「ハレ」ばかりをやっていては、今風の言い方をすると破産してしまいます。
つまり「ハレ」と「ケ」のバランスを保つため「神事」に対して「神賑い」が必要であり、祭りは「神賑行事」の行為であるということが分かります。
では「神賑行事」と「神事」はどう違うのですか?という疑問です。
どっちも神様を崇め奉っているんでしょ?と言いたくなるのですが、
違いは「人」の「注目」がどこにいくか、ということです。
「神事」があくまで神様の儀式なので、神との対話の代行を行う神主に氏子が注目するのですが、
「神賑」は氏子のみならず見物人同士が神を語らうというコミュニケーションがあります。
さて神様には「良いこと」をもたらす神様もいれば「悪いこと」をもたらす神様もいる、と言いましたが「御霊会」などは「悪いこと」をもたらす神様を「どうぞ怒りを鎮めてください」という意味があります。
あと驚いたのが「悪い神様」を神輿でかついだあと、神輿をボコボコに壊して最後は焼いてしまうというお祭りがあるとのこと。
バチ当たりやなーと思っていたら、京都の祇園祭の神輿もけっこうひどい(?)ことをしていて、もともと疫病などが流行った関係で「御霊会」的な意味合いもあった祇園祭では神様を最後に神泉苑で「水に流し」てしまい、最後は「難波の海に流してしまう」という言い伝えもあるそうで、実際に「難波」では「拾ってきた神様」を祭っている神社もあるとのこと。
日本には「水に流そう」という言葉がありますよね。
しかし、それを流した後、大阪に流したんかい!と京都人はイケズです。
あはは、面白い。
「神様」と「水」は過去から深いつながりがあり、神様が乗る前の神輿は「神輿」の先っぽの鳳凰を取って神様に乗ってもらう前に洗って清めるという「神輿洗い」の儀式がされているほか、
神武天皇が降り立ったのが「海辺」ということで海辺で神輿をかつぐ「浜降祭(はまおりまつり)」も存在しています。
(ちなみに祇園祭では「御霊会」的な面があるので、「神輿洗い」は最初と最後の2回もしているのが特徴的だとのこと。つまり終わった後の神輿洗いは悪い神様を流すという意味もあるのではないか、ということです。)
あと面白かったのが「神輿」のつくりには「仏教色」がかなりあり、神仏習合色がかなり強いのですが、明治時代の神仏分離令の時代に神社にある仏教色のあるものは相当壊されてきたのに、神輿だけは無事であったとのことでした。
日本人にとって神輿は身近な神様であると同時に昔の人のコミュニティーであった寺や当たり前のようにして拝んできたホトケの要素もあることがごく自然であったのでしょうね。