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「思い通りにならないのが当たり前」と思えない人を精神分析すると・・・
世の中、思い通りにならないのが当たり前です、と言われても、ふつうは心のつらさは消えないですよね?
そういうアドバイス(のような説教)を他人に言われるときはきまって、世の中のなんらか理不尽なところにつまずいているときです。
子どもが幼稚園に入れなかった。日本死ね、みたいに。
で、どんどんツイッターとかで社会的な発言をしだす・・・・人もいますが。
しかしじつは、思い通りにならない社会、すなわち他者がイヤというより、世の中を思い通りに生きられていないこの自分がイヤだと思っているのです。
つまり、他人ではなく自分がイヤなのです。
なぜなら、どのような世の中においても、それなりに思い通りに暮らしている人がいるからであり、そういう人の存在を誰だって知っているから。
つまり、「思い通りにならない」と嘆いている人は、不器用な生き様の自分を抜け出して、要領よく生きている誰かになりたいと思っているということ。
そのことを、キルケゴールという思想家は、端的に、絶望と呼びました。
不器用な生き様のこの自分ではなく、要領よく生きているAさんのようになりたいと思う気持ちを、彼は絶望と名付けたのです。
絶望は葛藤がもたらします。
具体的には、心のなかのブラックボックス、すなわちキルケゴールのいう永遠、ラカンのいう反復強迫、夏目漱石のいう「不可思議な恐ろしい力」、芥川龍之介のいう「ただぼんやりした不安」と、現実社会を生きる自分の葛藤が生きづらさを産んでいます。
とすれば、ブラックボックスの中を少々覗いて、そこに入っているものを言葉にしてあげる必要が生じます。わたしたちは「なんか不可思議な恐ろしいもの」と言っても真に理解できないからです。なんかとは「なにかsomething」でしかないので、それが何なのかを具体的に言葉にしてあげる必要がある。
すると、思い通りにならない「自分」と世の中の折り合いがつくポイントが見えてきます。
世の中思い通りにならないのが当たり前、という(どうでもいい)説教はじつは、「永遠」と「べき論」の折り合いをうまくつけるために、心の非言語領域をがんばって言語化してね、ということなのです。
もちろん、説教している本人にその自覚は(おそらく)毛頭ないと思われますが。