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「なんかさみしい」の哲学的根拠⑦

このブログはタイトルを「なんかさみしい人のための哲学入門」としているので、哲学について今回はお話します。マジメな話なので興味のない方は読み飛ばしてください。

これまでの項で述べてきたキルケゴール解釈は学問的な哲学、すなわち「ある作法にのっとって言葉を言葉で厳密に定義する世界」においては見向きもされないものです。まあ、失笑する研究者多数、というところではないかと思います。

わたしはキルケゴールの思想を生活感覚でとらえなおしています。つまり研究者たちは「スルメ」を解剖して熱心に論文をお書きになっていますが、わたしは「スルメ」を「生(なま)」に戻し、それがどうなっているのかを勉強しています。

なぜならキルケゴール哲学は、彼の「親ガチャ」にハズレた経験や、どう頑張っても好きな女子と結婚できなかった深い絶望、身体的なハンディキャップ、学業の落ちこぼれ、などから生まれているからです。つまり彼の生活のなかから生まれた思想をそのまま、頭で理解するのみならず生活感覚に戻して理解したいとわたしは考えています。

キルケゴールがその主著『死に至る病』を出版した当初、それは「素人芸」であったはずです。当時彼は、哲学の世界において有名ではなかったのです。それが彼の死後、第一次世界大戦後のドイツでヒットしたりして徐々に世界に広まり、今や西洋哲学史になくてはならないマイルストーンとして燦然と輝くまでになりました。

研究者たちは言葉で言葉を定義するのが仕事ですから、生活感覚、すなわち「なんかさみしい」を捨象します。たとえそう感じても論文に書けません。

しかし、果たしてそれでいいのでしょうか?
キルケゴールが幼少期からその全身で、親との相性の悪さにもだえ苦しみ、好きな彼女と結婚できないことに煩悶し、のたうちまわったその生き様を標本としてすなわち「スルメ」として「言葉」で論じるだけでいいのでしょうか? それで「人間」を真に理解したと言えるのでしょうか? 人間を真に理解するというのは「全身運動」であって、頭で理解しただけでは済まないはずです。そう思いませんか?

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