カレーの灯火
そのアパートでは、毎晩必ずカレーの匂いがしていた。
私が小さい頃に住んでいたアパートは、白タイル張りの長方形に、各階4世帯ずつ家庭が押し込まれている、いたって普通のアパートだった。
近くに小学校がある立地だからか、同じくらいの年の子がたくさん住んでいて、当時そこに入居していたのは子育て世代ばかりだった。
私の住んでいた部屋は一番奥にあった。だから必然的に家に帰るまでいくつもの部屋の前を通ることになる。
中学生の頃、部活を終え腹ペコ状態でアパートに押し込まれた生活の数々を通り過ぎると、各家庭の窓からほんのり灯る光と、夜ご飯のおいしそうな匂いが漂っていた。
同じくらいの子どもがいる家庭ばかりで、同じような環境の入居者ばかりだったから、夜ご飯の時間や生活リズムは大体そろっていた。
だから夜ご飯時に廊下を歩くだけでその日の各家庭の夜ご飯がわかるような、「アパート夜ご飯総集編歩き」なるものができた。
匂いだけでメニューがわかるものか、と思う人もいるかもしれない。確かに大抵の場合は、「ああ、なんかおいしそうだなぁ」で終わる。
しかし、歩いているだけでよくわかるメニューもある。
カレーはまさにその代表格だ。
日本の家庭料理には珍しい香辛料のスパイシーな香りは、とても分かりやすい。
誰しも小学校の給食の時間や、他人の家から漂ってくる香りからほのめかされる実態なきカレーを味わったことがあると思う。やはりカレーの匂いは別格でわかりやすい。
だから歩いているだけで「あ、今日は〇〇ちゃん家はカレーだな」とか、「今日は××君家がカレーかあ」と認識できた。
そんな風に他人の家のカレーの匂いを嗅ぎながらお腹を空かせて帰宅していた日々だったが、ある時、不思議な現象が起こった。
毎晩廊下を歩いていると、必ずどこかの家がカレーを作っているのである。
それに気が付いたのは冬の日だった。その週は絶えずどこかの家庭からカレーの匂いがしていた。
〇〇ちゃんの家がカレーを作った次の日は××君の家が、××君の家がカレーを作った次の日は☆☆さんの家が……といった具合である。
皆さんご存じの通り、カレーは一度作ったらその後2、3日はカレーになるという、なんとも持続性の強い特異なメニューでもある。
だから厳密に毎日どこかの家でカレーが作り続けられているわけではなかったと思う。でも、必ずどこかの家がカレーを食べていた。まるで一度発生させたカレーの匂いを毎晩絶やさぬよう、灯火のように守っているかのようである。
ちょうど寒くなる季節だったから、各家庭が一斉にカレーを食べたいと思い始めただけかもしれない。ちょっとしたブームのような感覚だ。
しかし、その週のカレー連続記録はなんと翌週にも持ち越されていた。
こうなってくるといささか怪しい。これは偶然なのだろうか。いくらカレーが子供に人気なメニューだからと言って、そんなに頻繁に作っていたらさすがに飽きるだろう。
にもかかわらず、その日もアパートのどこかの家庭が、必ずカレーを作り食べていた。
何かがおかしい。
大人たちには、そんなに頻繁にカレーを作らなければいけない理由でもあるのだろうか。もしかすると、アパート内でカレーを絶やしてしまうと、何か恐ろしいことが起きるのかもしれない。
幼き日の私はそう考察した。
カレーの匂いで封印されていたシチューの怨霊が、何を食べてもシチューの味にしかならない呪いをかけてくるかもしれない。あるいは、カレーを作ることで消費されるスパイスの香りが、このアパートに何らかのスピリチュアル的な影響を与えているのかもしれない。
子供にはわからない。けれど大人たちは、何か重大な使命のために、冬の一定期間住人同士で協力して、カレーを決して絶やさないよう、カレー作りの習慣を守り続けているのかもしれない。
かもしれない。
そんなわけないと思いつつ、私は毎晩どこかの家庭から漂ってくるカレーの匂いに思いを馳せていた。
ちなみに私は辛い物が苦手なので、カレーはずっと甘口派である。
アパート一体のカレー作りに、カレーの辛さが関係しているかは、未だ不明である。