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「愛すること」、そして「愛を意志すること」 ー推し、ヤンデレ、etc...

 以前こんな記事を書いた。愛されることはいつも暴力的なのだ、という趣旨の文章だ。この補足として、それをはっきりと表しているジジェクの文章を引いておきたい。

それゆえに、愛される者の立場にいきなり立たされることは強烈な発見であり、外傷的ですらある。私は愛されることによって、明確な存在としての自分と、愛を生じさせた、自分の中にある不可解なXとの落差をじかに感じる。ラカンによる愛の定義ーー「愛とは自分のもっていないものを与えることである」ーーには、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛を告白されるというありふれた体験が、それを確証しているのではなかろうか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』

 以前は「愛されること」について書いたので、今度は「愛すること」についても少し触れておこう。

盲目的な愛

 ラカン(そしてジジェク)の言うように、「愛すること」が他人に幻想を抱くことだというのなら、それはそれで正しいのかもしれないけど、愛にはその側面しかないわけではない。
 他人に幻想を抱くような愛を「盲目的な愛」と名付けておく。盲目的な愛は相手に見返りを求めることがない。愛する人そのものではなく、愛する人がスイッチとなってイメージされる幻想を愛するのであれば、幻想の中で願望は充足される。ラカンのいう想像界に愛の対象物が存在している状態だ。
 推し活がその一例ではなかろうか。他人を推すことによる見返りは一見ないように見受けられる。しかし彼らは幻想の中で充足するゆえに、推しとの結婚や恋人関係になることを目的としているわけではないのだ。(もちろん全員がそうであるというわけではないことを付言しておく。特に、ここでは最も過激な意味での推し活を指しており、またもちろんその関係の中で愛が生まれない形態(ライバルとの競争が目的となっている場合など)はここには含まれない)
 またアニメ・漫画・ラノベなどでのいわゆるヤンデレにも同じことが言える。ヤンデレの愛の対象はやはり幻想であり、究極の形態では、愛する人は記号としての価値=つまり名前でしかなくなり、身体は交換可能なものとなる。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』の御園マユは「みーくん」を愛しているが、みーくんの肉体が同一であることの保証は必要なかった。誰がみーくんを名乗るのかは重要ではなかった。相手が「みーくん」でさえあればいいのだから。

 余談だが、『未来日記』の我妻由乃には一考の余地がある。彼女はヤンデレなのかメンヘラなのか。そこには、愛の対象が誰でもよいのか、誰でもよくないのか、という差異が関わってくる。御園マユもヤンデレなのかメンヘラなのか定義することは難しく、強いて言うなら「病気」だろう。

 また、盲目的な愛は、「恋に恋している」というよく聞くフレーズにも当てはまる。
 以上に見てきたように、盲目的な愛とは、幻想の中で願望が充足するいわば「自分勝手な」愛といえる。しかし、それはあくまで盲目的である場合においてのみ言えることだ。

打算的な愛

 愛にほかの側面があるとすれば、それは打算的な愛だ。言い換えれば、欲得ずくの愛のことだ。金銭欲、承認欲、性欲、いろんな欲求を満たすために必要とする、手段としての愛のことである。ここでは、愛とは「あなたを愛してる」という言葉によって交わされる契約としての愛であり、契約以上の意味を持たない。契約としての愛はそれによって金銭や名声や快楽をもたらす。とても現実主義的な愛のカタチなのだ。

それぞれの愛に欠落しているもの

 盲目的な愛に欠落しているのは理性だ。この愛を維持するにはそれ相応に理性を放棄しておくことが必要になる。理性を放棄するとはすなわち狂気に陥ることにほかならない。先に見たように、『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』の御園マユは理性を放棄しているからこそ、その愛をひたすら突き進むことができるのだ。そして、狂気に陥ることこそ、にゃるらが統合失調症を「そのままでいい」としたR.D.レインを引用してまで言いたかったことなのだろう。(にゃるらとレインについては以下を参照。)

 盲目的な愛が破綻するとき、それは現実が垣間見えるときなのだ。自分が相手に対して持っている幻想と、ちらと垣間見える現実との乖離がこれを引き起こす。
 推しとの結婚や恋人関係になることが目的でないにしても、その推しが現実に他の誰かとそうなることが、ある種の気味の悪さとか不快感を催す理由もここにある。結婚に理想の家庭という幻想を見いだすか、それとも過去の家庭におけるトラウマや年齢的な焦りによる現実を見いだすかは人それぞれだろうが、そこに幻想を見いだす者にとっては推しの結婚は途端に現実となってその人を襲い、現実を見いだすものにとっては見たくなかったものが反復強迫され、トラウマがうずきだすことになるのだ。こちらも一種の狂気だろう。

 打算的な愛に欠落しているのは理想である。打算的な愛は愛にできることの限界を自らに定めてしまっている。愛が手段でしかないうちは、愛は自らの限界を超えることができない。たとえ「愛にできることはもうない」としても、愛に愛の限界を超えさせるものを夢想することは人間に与えられた権利である。その理想が夢想であると知りながら愛を夢想することが、理想主義と現実主義との間で折衷した愛というものなのだ。

愛を意志すること

 これら二つの愛に欠落しているものを認めたうえで、これではない愛の形態を獲得するために、我々は愛を意志せねばならない。愛という名の狂気に陥ることなく、しかしニヒリスティックに愛にできることはもうないと決めつけてしまうことのない、「意志する愛」としての愛が必要だ。
 愛にできることはまだあると積極的能動的意志をもって、幻想としての相手だけではなく現実の相手までをも含めて他者を愛そうとする意志をもって、ひとまずのところ「意志する愛」は愛としての条件をクリアできるだろう。

 ちなみに、オカルトを信じるわけではないが、愛と意志の結びつきの一種の象徴として、アレイスター・クロウリーが見出した法則を紹介しておこう。
 ギリシャ文字にはそれぞれ数字が割り当てられていて、各単語には文字に割り当てられた数字を足していくことによって導かれる固有の数字がある。ギリシャ語で意志を意味するセレマ(Thelema)と愛を意味するアガペー(Agape)は、両方とも93となるのだ。

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