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トリュフォー『突然炎のごとく』(ゴダール『はなればなれに』)

『突然炎のごとく』は前からずっと見たいと思っていた。これはヌーヴェルヴァーグの記念碑的な作品、シンボルのような作品だからだ。その理由のひとつに、トリュフォーと対をなすヌーヴェルヴァーグの代表的監督・ゴダールが本作と同じような関係性を撮った『はなればなれに』という傑作があるから、というのがある。同じく男二人に女一人という関係性。(ハリー・ポッターもそうだ)
だからヌーヴェルヴァーグというと『突然炎のごとく』と『はなればなれに』の二つを挙げたくなる。他に派閥があるとすれば『勝手にしやがれ』と『大人は判ってくれない』だろうか?

ただし、ゴダールが『突然炎のごとく』に影響を受けて作ったのは『はなればなれに』ではなく『気狂いピエロ』の方だ。ゴダールは『突然炎のごとく』でカトリーヌが歌う「つむじ風」というシャンソンに感銘を受けて作詞作曲のセルジュ・レズヴァニに『気狂いピエロ』への曲の提供を依頼している。

また、この二作品はともにクエンティン・タランティーノへ影響を与えている。タランティーノの映画製作会社「A Band Apart」は『はなればなれに(原題:Bande à part)』からとったものだし、『パルプ・フィクション』には『突然炎のごとく(英題:Jules and Jim)』を意識した“Don't fucking Jimmy me, Jules”という台詞がある。

それでもって『突然炎のごとく』を視聴したのだが、やっぱりゴダールとは全然違う。ゴダールの方は諧謔的というか、遊びやパロディを至る所に配置する趣向があるのに対して、トリュフォーの方はユーモアはあれど全体的には真摯というか、真面目な趣がある。
どちらの作品もヒロインがいわゆる「運命の女(ファム・ファタール)」的に描かれながらも、『はなればなれに』は(いつものことながら)アンナ・カリーナへの当てつけのような、夫婦喧嘩を映画に持ち込んでしまっているような映画になっているのに対し、トリュフォーは女性を真面目に映している印象を受ける。実際、公開後トリュフォーの元に女性ファンから「カトリーヌはわたしです」という手紙を何枚も受け取ったそうだ。

というふうに、トリュフォーは六十年代の女性解放運動に呼応したような女性像、開放的で自由な女性を映すことに成功した。以下は作中に出てくる台詞である。

家庭的な女ではない
地上では幸福になれない女だ
彼女は幻だ
独占できない女だ

ジャンヌ・モローという役者も魅力的だ。彼女でなければカトリーヌというキャラクターは表現できなかっただろう。僕は彼女を見るたびフェリーニの映画の常連であるジュリエッタ・マシーナを思い出す。あるいは同じくイタリア映画の名優、アンナ・マニャーニを。

しかしこういう自由な女性というイメージはフランスという国家と切っても切れない関係にあるものだ。
フランスとは歴史的にいち早く君主を倒した国家であり、コミューンを一時期だけでも成立させた国家であり、また『第二の性』の著者、フェミニストのシモーヌ・ド・ボーヴォワールが生きた国でもある。
『ドクトル・ジバゴ』のように、本作では第一次世界大戦によって愛する者がはなればなれになってしまう物語だ。ドイツへ行ってしまう。フランス人とドイツ人、そして舞台となる時期を鑑みるに国家を暗喩していると言えなくもない。

そして、本作は恋愛映画として愛とは何かを突き詰めた映画でもあった。
完全に自由な愛は愛と呼べるのか。愛する者への愛と隣人愛と人類愛はどう違うのか。僕は映画を見ながらそんなことを考えた。

最近、U-NEXTにトリュフォーの映画が追加され、『突然炎のごとく』、『大人は判ってくれない』をはじめとして多くの作品が見られるようになっている。ぜひこの機会にトリュフォーを観賞してはどうだろうか。
(以前はアマプラで『アメリカの夜』が見られたのだが今はないようだ。また追加してくれ)

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