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本当はまだ、答えの出ていない「問い」であるはずのことに覆われてしまうこと


本当はまだ問いの段階であるはずの事を答えであると思いこんでしまったり、“知ってる”“分かってる”と思い込んでいる事で、自分や人を覆ってしまうことについて。

こうした事は誰でもある事かもしれないと思うのですが、
私自身もあることで、まだ分かっていないことを分かっている、知っていると思い込んで、そうしたことが私自身や私の世界、周囲のものを覆ってしまってる様な事があったり、自分のことも、否定する思い込みで自分を覆っていたりする様なこともこれまでにあったりします。

私はnoteに自分の言葉を書いたものを投稿するのは今回が初めてなのですが、今回はそんなよくある、分かっていると思っていることや知っていると思っていること、こうだと思い込んだことなどで自分や人を覆ってしまったり、色々なものが覆われてしまうという事について書いてみたいと思います。

書くにあたって短歌を少し引用させていただきたいのですが、私の好きな歌人の方で、笹井(筒井)宏之さんという方がいらっしゃいます。私は笹井さんの短歌や詩などをよんでいると、心ある人に会えたような、ほっとする感じがあります。

そんな笹井さんの短歌に

「問いであることをわすれた一枚の布が私を覆ってしまう」

という歌がありますが、私はこの短歌を初めてよんだときに、私が思う先程書いたような事と、表現されていることが通じる感じがしました。

人それぞれ、受け取る意味や思い浮かべることは違ったりして、笹井さんの本意も私は知らないのに、私なりの感じたことを書かせて頂いて恐縮ですが……書かせて頂きたいと思います。🙇

あまり良い例ではありませんが分かりやすい例で、相手が自分のことを好きなのだと思い込んでつきまとい、ストーカー行為を繰り返している人などは、本当は、相手が自分を好きかどうかはまだ問いであるはずのことなのに、好きなのだと思い込んで付きまとってしまいますね。
そういうことも、問いであるはずの布に相手を覆い、自分も覆われてしまっている状態とも言えるかもしれないと思います。

そして、歴史上のことや学問、知識なども、後から覆されることもあり、今知っている、分かっているとされていることの中にもまだ本当は分かっていないはずの事もあったりします。そうした知識や歴史も、個人や世の中を覆っているものの一つであることも、あるかもしれないと思います。

この社会や、世の中全体が…さらには宇宙の法則やシステムなどのことも、宗教も、今解っていると言われていることの中にも、どこかは正しかったり真実でも、決して全て正しいとか、真実とかいうことはないかもしれません。多くの人に真実と信じられている様々なことで、宇宙、社会全体が布に覆われてしまっているかの様な事もあるかもしれないと思います。

問いであるはずの布(問いであることをわすれた一枚の布)に覆われてしまっている状態…。布に覆われてしまうと、どうなるのでしょうか。。

私の頭の中にしかないような事ばかり書いてしまいますが、

似ていることで、とても濃ゆい色眼鏡をかけているのにそれが認識できず、その色を上塗りされて見えているものを真実だと思い込んでしまうことが思い浮かびます。

偏見や差別も、そんなふうに色眼鏡で見ている状態とも言えるところがあるかもしれませんし、人と接していると、常に相手の色で自分を上塗りされているように感じられる事もあります。それも布で覆われている状態と似ているかもしれないと思います。

でも、少し…上手く表現できませんが、布で覆われるというのは、色眼鏡よりも、大きい感じがします。

自分や他者を自分の布で覆うということは、色眼鏡で見るというよりも、閉じ込めるような、縛るような感じも強まる気がします。

私は15歳の頃に酷いDVを交際相手から受けていた事がありますが、DVの中にもそういう感じがある事があるように思います。

ところで皆さんは、人から本当は真実とか正しいわけではないはずの価値基準や決めつけ、思い、偏見を被せられて自分が疎外されたり否定されているような感覚になるようなことが続いたり、長いこと、本当ではないことで洗脳されたり、コントロールされたり、でも事情があったり、自分に思考能力や判断能力がなくなってしまう状態に追いやられてしまっていたりして、その人と離れられなくて、なかなかそこから出られなくなってしまったり、身近な人の信じていることによって自分が閉ざされたり、閉じ込められるように感じたことがありませんか?

私はあります。これらのことはわりと多くの人が経験がある事なのではないかと思います。

初回に近い投稿ですし、自己紹介も兼ねて、私のことを少し書かせて頂きたいと思いますが…
私の場合は自分が布で覆われてしまうような感じを小さい子供の頃から感じていたりして、その頃は布で覆われるという表現ではなくて、相手(親、先生、大人)やその場の“小さい箱”の中の世界に入れられて、その範囲の中でしか存在を許されないような感じがしたりしていました。
そんな風に私が感じるようになった背景には、幼稚園では主に先生にいじめられていたことがあったりしました。小学校でも、家でも色々あって、目が死んだようになってから、またいじめられたりしていた肺炎になって長期間学校を休み、保健室登校になり、それから不登校になったりしていました。

それでも、母を通して野口整体というものと出会い、身体を観てもらって指導を受けたり、愉氣というものや活元運動というもとの出会いもあり、一時それまでとは別人のように健康と元気を取り戻した時期もあります。でも、そうして一段自分の状態が改善された時に、その一段がとても大きくて、まるで世界が変わったように感じられて(本当はまだ身体の鈍ってるところや自覚のないこわばりや、潜伏しているもの、精神的な打撲の影響などがまだあったのですが、)全てが良くなったと思えるくらい、呼吸が深く楽になり、自分が一体感や元気を取り戻して、「もう何でもできる気がする!何でも自分次第なんだ!大丈夫!」
などと思って高校に行きだしたりバイトしたり外に飛び出していった矢先、15歳の時に交際相手に酷いDVにあい、またズタボロになり、高校も中退してしまいました。

その頃は、強いショックや恐怖や強いストレスが続いていたため、思考もまともに働きにくい状態が長期間続き、判断能力も無い感じで、とにかく恐ろしいから家の中でも縮こまり、外に出れず、隠れてなくちゃというのと、私はおかしい、自分を消したい、消えたい気持ちで引きこもることしかしばらく出来ずにいました。
自分に何があったかは、とても大まかなことしか誰にも言えませんでした。(今でも細かなこと、具体的なことは誰にも言えませんし、言いたくありません。)
何とか通信制の高校に通ったりできるようになりましたが、ずっとどこか上の空な状態で、友達も作る感じにあまりなれませんでした。

そんなかんじで、まだ強いトラウマのある自分の状態や自分の身に起きたことなどが色々自分でもわけがわかってないまま心ここにあらずな感じに何年もなっていて、とにかく自己否定している状態がありましたが、先程も少し書いていた、野口整体のなかの、言葉ではなくて、身体から働きかけることと、活元運動というものや愉氣というものにまた助けられたりしながら、一時はまた勉強したいことを勉強したり、バイトをしたり、一人暮らしをしたり出来るようになった時期もありました。

一時的にとても良い状態になれることもありましたが、表面からは何事も無いかのように、愛想が良く、落ち着いているようにしていても、実のところPTSDなど後遺症がかなりあり、(私はDV以外でも幼い頃から何度も性加害にあってきていて、父親からのものもあります。その分の後遺症もあると思いますが)いつも内心はいっぱいいっぱいでした。

そんな中、一人暮らしを始めていた姉が自死してしまったり、それから姉の生前好きだったこと(写真を撮ることや編み物をすることなどです)を私もするようになったり、いろいろな事がありました。
ずっと、心身の状態が悪くなったり良くなったりを繰り返しながら、色々と布で覆われたり迷走したりしながら生きて来ました。

ちなみに、最近は、住む家をお引越しできたのもあってか、自分の状態が少し良くなっており、引きこもりがちではありますが、自宅で整体のお仕事を母とするようになり、色々と大変なことが続けてあってからなかなか思うように出来なくなっていた、絵を描くことをしたりして生活しています。

すみません、話しだしたら止まらず…色々省いたところもありますが長々とお話してしまいました。。
話を戻します。🙇

布で覆われてしまうことについての色々。。

自分を否定する布で自分を覆ってしまうこともありますが、逆に、自分や人を自分にとってとても都合のいい布で覆ってしまう場合も多々あると思います。

例えば、肩書きであったり活動もまるで飾りのようになっている様な人も見かけることがありますが、自称で、“私は〇〇です”と言っていることのなかにも、本当にその通りな事もありますが、本当はそれは本人がそう思われたい、そうなりたいと思っているだけのことであったり、本人にとって都合の良いことだったり、色々な勘違いからそう思っていたり、一部の人から言われたことでそのつもりになっているだけのこと、などということも少なからず見られますね。

実際に接しているときやSNS上で、別に何も聞かれてもいないのに、何も疑われているわけではないのに、「私は嘘はつきません」とか、「私はお世辞は言いません」、とか、「私は欲は捨てました」とか、そう言うことも含めてのことなのですが、私は〇〇ですと自分からとても積極的に発している人のなかにも、(相手を安心させたくて言っているかのように言われることもありますが)本当にその通りの人もいますが、本当は好かれたくて、認められたくてとか、相手に取り入りたくて言っている場合もあったりして、実際は伴わず全然違う事もあったり、自分のことに自覚がないだけだったりすることもあるように思います。(本当に相手を安心させたいのなら実際も伴っているはずです。伴わなければ自覚のない嘘かただの嘘と思われても仕方がないと思います。)
そのように、自分の事を都合よく思い込んでいたり、自分をたくさん飾っていたり覆ってしまっていることも、よくある事のように思います。

ちなみに、私はそういう、布で覆われてしまう事がみんな悪いとか思うわけではないですし、嫌な嘘もありますが、嘘は絶対許さないとか、そんなに悪いと思うわけではありません。私も自分の事は話しにくいことが色々あったりしますし、どうしても何か言わないといけないときは、相手や状況によって嘘を言わざるをえないこがありますし、その人が嘘を言う事の背景には過去に色々あったり、強迫観念や不安であったり、攻撃されたり理解されなかった経験であったり、その場の和の方を大事にしたかったり、色々なものがある事があるなと思っています。それに、自分自身の事に関してはどう思おうがその人の自由である面もあると思います。

でも、とても行き過ぎていると思える事柄にこれまでに実際に何度も遭遇したり、身近で深刻な事件や問題に関連してそれらのことが見られたりすることもありました。

なかなか上手く表現しきれないですが…本当は、人や物事にはいつも色々な側面があり、自分のことであっても分かりえていない、知りえていないことや、意識に上らず、表に出てこない部分もあり、簡単にひとくくりにされがちな事でも本当は様々なケースがあり、更に根本に個々の人の持つ性質の違いがあり、同じようなことでも、その人の体質や感受性、経験など持っているものの違いによって、人それぞれ、同じ事柄でも受け取ることや体験や影響が異なってくるなどの事もあると思うのですが……。
自分の体験や数人の他者の体験に、自分が正しいと思う偉い人や偉人の言葉を重ねたりして、簡単に真理を分かったつもりになっていたり、自分や周囲の事だけで、単純に全ての場合や人がそうなのだと思い込み、思考停止し、それに覆われてしまっていたりする事もよくあるなと思います。

私自身も恥ずかしながら、偏見、差別など、自分もしていると気付かされたこともありますし、自分や人を小さい箱に入れるようなことや、布に覆われたり覆う様なこともあります。今もあるかもですが。なるべく気が付くことが出来たら良いですが、なかなか全てに気が付いていることは出来そうにない気がしています。。😶‍🌫️


今回は、布で覆われるというイメージや表現を使って私が個人的に思うことを書きたいなと思ったのですが…何が言いたいのかよく分からない文章になってしまったかもしれません。。くどくなってしまった感もあり、長々とすみません。

まだnoteの書き方もよく分かっておらず…体質的なものもありこういう作業が苦手で、具合が悪くなりやすい私は今後もこの様なつらつら書いただけのものになってしまいがちかと思いますが…😶

気ままに自分の好きなものを紹介したりしながら(今回の“好きなもの”は笹井さんの短歌ですね)時々、自分の思いも書いてみたり出来たら良いなと思います。

この様な文章を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました🌼

乱文失礼いたしました。🙇

✽✽✽✽✽
(写真は海の水面を水中から撮ったものです。)

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