初恋をこじらせて(小説ショート)
ごぉ、背後から風が吹いた。コートの裾が脚に纏わりつく。
「さむっ」
誰にいうわけでもなく、つぶやく。冷たい風のなかに僅かな春の匂いが混ざっている。新宿駅の西側、小田急百貨店の近くで1本、煙草を吸ってから待ち合わせ場所に向かう。東京に来てから歩くのが速くなった。
「待たせてごめん!」
遅れて到着したのは私の恋人だ。1週間前に告白された。別に嫌なところもないので、つきあってみることにした。
「全然待ってないよ。行こっか」
友だちの友だち、よくある出会いだった。田舎から上京して6年、お節介な友だちのおかげでできた。彼はさりげなく、私の手からバスケットを奪う。
「ありがとう。でも自分で持つよ」
数年前ならそう言っていたけれど、何人かとお付き合いを重ねるうち、男の人に何かをしてもらうときはご厚意に甘えるようになった。別に持ってくれなくてもいいのに、心のなかではそう思っている。
どちらともなく、互いに空いた手をつなぐ。ぎこちない。寒いのに、じわ、っと湿るのがわかった。
「タロちゃんの手はどうしてそんなに大きいの?」
「お前を離さないためだよ」
ふたりの笑い声が風に溶けて、上昇した空気が私たちを包む。
「途中で飲み物だけ買って行こうよ」
「うん。コンビニでいいかな」
ごぉ、背後から風が吹いた。コートの裾が脚に纏わりつく。
「さむっ」
誰にいうわけでもなく、つぶやく。冷たい風のなかに僅かな春の匂いが混ざっている。
「ごめん、お待たせ」
私は彼を見つけて駆け寄りながら言った。
「ん、行こっか」
彼は特に気にする様子もなく、ポケットからまだ暖かい缶コーヒーを取り出して私に渡した。微糖だ。喫茶店で飲むコーヒーはいつもブラックだけど、缶コーヒーは微糖が好きなのを、知っている。
「ありがと」
カシュ、熱くてほろ苦い液体が喉をつたう。缶を持っている手が温かい。彼の腕とお腹の間にできた隙間にスルリ、右腕を差し込む。
「長いコート着ると強そうだね」
背の高い私がロングコートを着ると、格闘家の人たちが身体を冷やさないように羽織るタオルに見えるらしい。
「似合ってるでしょ」
「うん、似合ってる」
そう言って、やさしい笑顔を私に向ける。
「ちゃんとナビしてね」
いつも遅れる私に、彼はいつも案内させる。加えて方向音痴でもあるから、本当は彼も大体の方向を把握しているって、私は知っている。
「帰りにケーキも買ってく?」
私は鼻を穴を膨らませながら唇を横にひいて、にんまり、頷いた。
コンビニでホットドリンクのコーナーの前に立ちながら、そんな初めての彼のことを思い出していた。別れてから5年が経つ。それでもまだ、鮮明に思い出す。
「決まった?」
顔を覗き込みながら聞いてくる。妙に距離が近い。
「タロちゃんは?」
俺はこれ、と顔の位置まで上げられた黒烏龍茶のペットボトル、膨張して丸みを帯びている。私はレモンティーを選んだ。別々でレジに並ぶ。
あの人はこういうとき、いつもブラックコーヒーだったなとか、いっしょにお会計してくれたなとか、いちいち思い出してしまう。
何よりあの、私をみるときの目、私に向けられたあの視線———。
初めての彼——照(てる)——とは、私が20歳のときに出会った。私は4年制大学の2年生だった。それまでもずっと男っ気がなく、部活の先輩が勧めてきたアプリを試しに、と思い始めてみると、彼氏ができた。27歳のサラリーマンで、菓子パンの商品開発を担当している人だった。
「こんなに人を好きになったの、初めてで怖い」
照はよくそう言っていた。付き合って2年目には、同じアパートに住んでいた。私の大学から近いところで、遅刻しがちな私を送ってくれることも多かった。
「雨降ってたら電話しなさい」
傘を持たずに出かける私を気にして、迎えにきてくれた。
「きょう遅くなる」
いつもほとんど直帰なのに、遅い日もあった。そんな日は私の好きなチョコレイトやパン、ケーキ、お花を買ってきてくれていた。
私が料理をすることが多くて、
「きょうなに食べたい?」
と聞くと、ハンバーグとか唐揚げとか、子どもが好きそうなもののリクエストが多かった。
「ぶぅちゃんの料理はスパイスが効いてて、ワインに合うね」
照は私を”ぶぅちゃん”と呼んでいた。照以外に呼ばれると腹が立った。お酒は詳しくなかったけど、照のおかげでワインを好きになった。
付き合って2年、何もない田舎の大学でのびのびと勉強した私は、就職のタイミングで上京することになった。
「俺は遠距離、無理だよ」
「じゃあいっしょに東京行こう」
イエスともノーとも言わなかった。照を置いたまま、私だけ上京した。目まぐるしく過ぎていく日々、慣れない環境に疲れて、こまめに連絡できなかった。地元が東京の同期や上司と飲みいくことも多く、泥酔状態で帰宅する日々が続くこともあった。どんなに酔っ払っても照が迎えにきてくれていたのに、いまはただひとり、仲の良い友だちが増えても、埋まることのない隙間があった。上京してから2年以上が経過した。
「照は私とどうしたいの?」
「・・・・・・」
なにも言わない。
「気になる人ができたから、別れてほしい」
「わかった」
私から別れを切り出した。あっさり終わった。涙が溢れる。もちろん、気になる人なんてできていない。
照の匂いが好きだった。トマトだけは嫌いなところ、ラングドックのカベルネが好きなところ、チョコパイが安いと嬉しそうに買い物カゴに入れるところ、寝相の悪い私の写真を撮ってにやにやしているところ——。私のことを見つめる瞳が温かかった。その全てはもう二度と、見ることができないんだ。
ガチャ、泣き止まないうちにコンビニへ行き、煙草とウィスキーを買った。遅めの煙草デビューだ。むせた。ひたすら、ウィスキーを身体に入れ、煙草を吸った。
誘われた飲み会は全て行った。酔っ払った勢いで、セックスもした。モテなくはなかった。別れてから1ヶ月経たないうちに、お金に余裕のある個人事業主の人と付き合った。
「愛してるよ」
歯の浮くセリフをサラッという。美味しいお店に連れて行ってくれたり、会社から近いマンションの一室を与えてくれたりもした。
「はぁ。本当にあり得ない」
酔っ払った私が服を全部脱いでソファで寝ていたところ、彼がやってきて見られた。そのときに言われたセリフだ。照なら、写真を撮って笑ってくれた。
「私の家なんだから、いいじゃない」
「家のなかだろうが、酔っ払っていようが、なにしてもいいっていう感覚が気に入らない」
無表情のまま、家を出た。2度とそのマンションへは行かなかった。金持ちの彼から連絡もなかった。
次は自分の店を持ちたいと頑張る飲食店員の人に告白された。志の高い人だ。お金を稼ぐため、ほぼ休みなしだった。会える日は少ない。
「おもしろそう」
告白されたときに言われた。しかし、その3ヶ月後には、
「友だちになりたい」
とフラれた。おもしろさや女性らしさが欠落していたか。その彼の働く居酒屋で知り合った人に、今度は告白された。地球に優しい肥料を開発している人で、イギリスの大学院を卒業している人だった。
「今度、美術館行きましょう」
博学な彼はとの話は弾みに弾んだ。好きな歌手や本が同じだった。大学時代からイギリスで生活していたからだろう、エスコートが上手だった。
「コートかけようか」
食事での場では上着をあずかってくれ、椅子をひいてくれる。扉は先に開けて待っていてくれる。買い物をしたら荷物を持ってくれる。家までは来ない近くまで送り迎えしてくれる。紳士的な振る舞いで、仕事も安定している——が、焦点の合っていない目をしていた。
タロちゃんの持ってきたレジャーシートを敷いて、バスケットを真ん中に置く。バゲットに挟んだ卵とハムチーズのサンドウィッチを取り出す。
「おいしい! これ何が入ってるの?」
「レバーペーストにナンプラーとヨーグルト混ぜたんだ。ちょっとクミンも入ってるよ。バインミーみたくしたくて」
男の人は刺激物に弱いらしいから、酸味は抑えた。パクチーもいれなかった。
「りんごとぶどうもあるよ」
お嫁さんになったら最高だね——なんて言いながら美味しそうに頬張る。タロちゃんは良い人だ。好きになれるかもしれない。あの目を向けられれば——。
「来月くらいにまたピクニックしたいね」
犬のようなまっすぐな目で私を見る。寒さのせいか、少し充血している。違う。しっとりと濡れたような、キラキラした透き通ったあの瞳じゃない。
「タロちゃん。私、お嫁さんにはなれないよ」
「冗談だよ〜。付き合って1週間で結婚は考えてないって」
「じゃあ、なんのために付き合ってるの?」
安定した仕事についているからか、健康だからか、ちょっと容姿が良いからか、お酒が好きだからか、条件的に私はみられる。なにも持たない私を好きになってくれる人はいるのか。
「さよなら。もう会わないね」
私はささっと荷物をまとめて、公園を後にした。タロちゃんはサンドウィッチを必死に咀嚼しながら慌てている。
スーパーに寄って、牛豚合い挽き肉を買って帰ろう。重めの赤ワインとチョコレイトもだ。スパイスを効かせたハンバーグを作ろう。トマトとキノコのソースにして、シンプルにコンソメのオニオンスープも付けよう。
正面から強い風が吹く。冷たいけれど少しだけ、梅の香りが混ざっている。セットした髪やはだけたコートのことはなにひとつ、気にならなかった。