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かんりんまる、という船がありました。

咸臨、とは古代中国の書物『易経』から
とられた言葉で、意味は
「君主と家臣が互いに親しみ合うこと」。

この船、1857年にオランダで完成しました。
1860年に太平洋横断。1871年に沈没。

歴史を動かし、表舞台に立った後、、
静かな歴史の証人となって、
最後は海の底へと沈んでいった…。

本記事では、この船の話を書きます。

1853年、アメリカ合衆国のペリーが
黒船とともに日本にやってきました。

江戸幕府は、ペリーが帰っていくと、
「こりゃ、こちらも黒船を作らんとな!」
早速、オランダに軍艦を注文。
幕府とオランダ、仲が良かった。

オランダの港町、ロッテルダム。

今でもEUの海の玄関口とも言われる
世界的な港町です。
首都アムステルダムにも劣らない。
この街を流れるレタ川の上流に、
「キンデルダイク」という街がありました。
黄金のような素晴らしい船大工がいる街。
並んだ風車が世界遺産にもなっている街…。

ここで、咸臨丸が作られたのです。
1857年に完成!
日本から注文があったため、
建造中には「ジャパン」的な意味で
『ヤパン』と呼ばれていたそうです。

しかし船は、自動的には動きません。
船を動かす「船乗り」つまり船員も必要。
幕府はオランダ商館長と相談して、
長崎に「海軍伝習所」を作ることにしました。
オランダから教師団を呼んできた。

これが、1855年のことです。

完成した咸臨丸もここに運ばれ、
多くの伝習生たちが
船の動かし方、航海の仕方を学んだ。
咸臨丸は「練習艦」として使われたのです。
(長崎の海軍伝習所は
築地に軍艦操練所ができたため
1859年には閉鎖)

さてこの頃、国内の情勢は、と言えば、

大老井伊直弼が「日米修好通商条約」
1858年に朝廷の許しを得ず締結し、
1860年に桜田門外の変で暗殺される。
とても、きな臭い感じ。

条約を結んだら、批准書の交換に
アメリカに行かなくてはいけません。
正式な使節、つまり正使たちは
アメリカの船「ポーハタン号」に
乗ることになりましたが、
それとは別に、日本からも
おともの船を出すことになった。

(万が一、ポーハタン号に事故があった時、
代わりの船が必要だ、という理由で)

この任務を担ったのが、咸臨丸なのです。

船の司令官に任じられたのは
「木村芥舟」(きむらかいしゅう)。
彼は旗本の子どもです。
小さいころから水野忠邦の命令で
奉行見習いとして出仕していた逸材でした。
長崎海軍伝習所の取締にも就任していた。

最初、この伝習所は
江戸から遠いことをいいことに
(遊郭に通うなど)風紀が乱れていた。
しかし芥舟が風紀委員のように
取り締まり始めてから
みんなが真面目に修行に励むようになった。
厳しい教頭先生みたいなもの。

この木村が咸臨丸メンバーを選んだんです。
自然、伝習所の人たちが中心になります。

◇運用方
佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、浜口興右衛門
◇測量方
小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉
◇蒸気方
肥田浜五郎、山本金次郎 など


初めて太平洋横断を目指す船です。
実力派のメンバーを集めた。

なお、この他にも有名人が乗っていました。
通訳には「ジョン万次郎(中浜万次郎)」
「勝海舟」も同行し、
「福沢諭吉」は木村の従者として、乗った。

ただ木村は、それだけでは不安でした。
嵐に巻き込まれるかもしれない…。
日本人だけでやる!という乗組員を説得し、
アメリカ海軍軍人ブルックたちを
念のために乗艦させておきました。
(いわゆる「フラグ」のようなものでしょうか?)

こうして1860年2月、
咸臨丸はポーハタン号とともに
サンフランシスコに向けて出港した。

…ええ、フラグ通り、予想通り、と言いますかね、

途中で、大きな嵐に遭ったんです。
日本人の乗組員の多くは
船酔いになり身動きが取れなくなる…。
(勝海舟も船酔いに悩まされたと言います)
ブルックたちの活躍もあって、
命からがら、咸臨丸は3月に到着しました。

船体はだいぶ傷んでいました。
咸臨丸は修理をした上で帰路に就く。
今度は比較的穏やかな日が多く、
5月、無事に浦賀港に帰ることができました。

…ただ、この「咸臨丸の栄光の航海」は、
どうしてもその後の歴史もあって
「勝海舟のお手柄」として語られがち。

勝海舟は、1823年生まれ。
木村芥舟、1830年生まれ。
福沢諭吉、1835年生まれ。

プライドが高くて有能な海舟としては、
7歳も年下の木村が自分より
上の立場にいたことに
イラッとしていたのでしょう。
ましてや12歳、つまり一回りも年下の
福沢のことなど、眼中になかった。

福沢は福沢でプライドの高い男です。

明治時代になってから
「痩我慢の説」という本を書いて、
海舟を痛烈に批判しています。
海舟のほうも福沢は嫌い。
「相場などをして、金を儲けることが
好きで、いつでも、そう云ふことを
する男さ」と、彼を批判しています。

そんなギスギスした人間関係の中で、
黙々と働いたのが測量方の小野友五郎です。
1817年生まれ、勝海舟より6歳年上。

笠間藩の出身で、和算・測量術の達人!
24歳で江戸に出ると
大洋航海法を記した「渡海新編」を和訳。
長崎海軍伝習所の一期生となり、
航海技術を極めた超有能な技術官僚です。

帰国後、小野の働きが木村により報告されて、
将軍徳川家茂に謁見、表彰されました。
後に軍艦頭取、正式に幕臣となり、
最後には勘定奉行並にまで出世します。

…ただ、時代は大政奉還、次いで討幕へ。
幕臣の小野は投獄されてしまいます。
許された後は黙々と
教育や製塩の分野で後進を育てました。

その一方で、勝海舟は「幕末の英雄」、
福沢諭吉は「明治の偉人」となる。

歴史の教科書にも名を残していく…。

咸臨丸はどうなったのでしょうか?

帰国後、神奈川や横浜の警護船、
小笠原諸島の調査活動、
榎本武揚などの留学生を運ぶ船などとして
使われていたのですが、

さすがに徐々に古くなり、大政奉還の年の
1867年には「蒸気機関を除去」されて、
ただの帆船、輸送船になりました。

戊辰戦争にも巻き込まれ、損傷。
1871年、廃藩置県の年、函館から小樽に
仙台藩からの移住民を運ぶ途中に、
座礁して沈没した、と言われています。

最後に、まとめます。

本記事では太平洋横断を成し遂げた船、
「咸臨丸」のことを書きました。

この船が沈没した時、
乗っていた移住民たち401人は
全員が助かったそうです。

オランダで生まれて、北海道沖で沈んだ。
歴史の栄光の表舞台に一瞬だけ立った後、
その後は裏舞台に控えて、静かに消えた船…。
多くの人命を道連れにすることなく、
自らだけが、波の中へと消えた。

その最後の謎が、北海道の
「木古内町観光協会」の記事内で
考察されています。
よろしければぜひご一読を!

※本記事は以前に書いた記事のリライトです↓

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