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林太郎と柴三郎 ~脚気をめぐって~
大物は、成功も失敗も大きいものです。
先にお断りしておく形になりますが、
本記事で書く話は、誰かを
「評価する」とか「傷つける」とか
そんな意図はありません。
そういうことがあった、と
私なりに取捨選択して紹介するに留めます。
どうぞご自由に解釈をお願いします。
「明治の文豪」森鷗外(森林太郎)と
「医学の巨人」北里柴三郎についてです。
何の接点も無さそうな二人ですが、
ある病気が彼らを結びつけています。
『脚気(かっけ)』です。
本記事ではこの病気の克服を目指した
事績を追いつつ、接点を書いてみます。
脚気。
…ビタミンB1(チアミン)の不足で起こる
「ビタミン欠乏症」の1つ。
心不全、足の浮腫、神経障害。
足のしびれが起きるため「脚気」と呼ばれた。
ビタミンB1は、
酵母・豚肉・胚芽(米ぬか)・豆類・
蕎麦・パン・牛乳・野菜・うなぎなどに
多く含まれる栄養素です。
これらのものを採らないと
脚気になる確率が高くなる、と言える。
…パン(小麦製品)や豚肉を
比較的よく食べる西洋では、
脚気は大きな問題にはなりませんでした。
日本でも玄米や麦飯を食べている地方では、
そこまで起こることはなかった。
しかし江戸時代に「白米」が
主食として広まりますと、江戸の街で
『江戸わずらい』として広がります。
地方から参勤交代で出張してくる武士は
美味しい「白米」をたくさん食べる。
食生活が偏ります。
その結果、ビタミンB1が不足し、
脚気をわずらってしまった。
しかし、地方に戻り食生活が変われば、
いつの間にか治る…。
江戸でかかるから「江戸わずらい」。
明治時代に入っても状況は変わりません。
たびたび脚気が猛威を振るった。
特に、みんなが同じ食事をする軍隊で…。
「ビタミン」の概念が生まれたのは
20世紀の頃。最近のことです。
19世紀、脚気がなぜ起こるのか謎だった。
…まさか自分が食べている
食事が原因とは思わなかったでしょう。
『脚気伝染病説』が広がっていきます。
「脚気菌」というものがいて、
脚気はそれが引き起こす伝染病なのだ…と。
しかし脚気の原因が「食べ物」にあると
いち早く見抜いた人が日本にいた。
海軍軍医の「高木兼寛」です。
1849~1920年。
東京慈恵会医科大学の創始者。
彼は1875年、ロンドンに留学して
在学中に最優秀学生の表彰を得た。
1885年には海軍軍医総監
(軍医の最高階級)まで出世する。
1883年には「脚気撲滅」のため
比較実験を行っています。
軍艦「龍驤」の遠洋航海で事件が起きたんです。
乗組員376人中、169人が脚気になった。
25人が死亡した。
「ビヤウシヤオオシ カウカイデキヌ カネオクレ」
本国に電信を送った龍驤に、海軍本部は
それまでの食料品を破棄させ、
パン及び新鮮な肉・野菜を積み込ませた。
帰路では新たな患者は現れませんでした。
その結果を受けて、高木は
軍艦「筑波」の遠洋航海のルートを
「龍驤」とほぼ同じ航路に変更させ、
乗組員の食事を変える実験を行わせたのです。
◆上官と下級兵員との献立の差を減らす
◆献立に「洋食」を採用
◆兵員に対して肉を増やしパン食を採用
この航海実験の結果、
乗組員総333人中、発病者は2人のみでした。
死亡者は「無し」。
1885年、高木は高らかに自説を
『大日本私立衛生会雑誌』に発表します。
「脚気の原因は、ずばり、栄養だ!
肉などのタンパク質の不足が原因である。
麦飯は優秀だ。
麦が含むタンパク質は、米よりも多い!』
…しかし、この論は医学分析としては
論理に欠けており、批判を受けます。
「食べ物が不良だと身体が弱くなって
万病にかかりやすいのに、
なぜ脚気は食べ物が原因になるのか?」
「麦飯はタンパク質の吸収が悪い。
白米のほうが消化がいいだろう?
麦飯・パンが良いというのは誤り!」
「トンデモ説」扱いされてしまうんです。
…確かに当時の状況を考えれば、
「白米を食べているのに
それが原因で病気になるのは信じられない」
「そもそも脚気は伝染病だ!」
そんな考えが主流だったので
しょうがない面はありました。
それでも、高木は自説を曲げなかった。
自分の管轄内の海軍で麦飯を採用し続ける。
結果として、脚気を抑制できたのです。
…では、陸軍はどうか?
ここに、森林太郎という軍医が現れます。
1862~1922年。
ペンネームは「鷗外」。森鷗外です。
彼は文豪として名高い一方、
陸軍の軍医総監にまで出世した。
『小説家と軍医の二刀流』を極めた男!
ドイツへの留学経験があります。
小説『舞姫』の舞台です。
ここで最新の細菌学、衛生学を学んだ。
しかしその結果、潔癖症になり、
果物も加熱しないと食べられなくなった。
風呂も伝染病を恐れて入らず、
一日2回、手拭いで身を清めていた…。
几帳面な人だったんです。
そんな森林太郎(本名で表記)ですから
『脚気伝染病説』を強く信じていた。
東大の教授で衛生学専門の緒方正規が
『脚気菌発見』の報告を行っていた。
そんな事情もあったのかもしれません。
林太郎は高木の栄養説を
『日本兵食論大意』という本で
鋭く批判します。
陸軍は「白米」にこだわった。
…その結果、どうなったでしょう?
◆日清戦争:約3万5千人(死者約4千人)
◆日露戦争:約21万人(死者約2万8千人)
膨大な数の脚気患者を出してしまいました。
(注:海軍は患者約40人、死者一桁です)
兵士たちは敵と戦う前に
自分の体調と戦わなければいけなかった…。
もちろん、林太郎一人の責任ではない。
陸軍本部全体の責任とも言えます。
しかし彼が影響力のある軍医である以上、
全く責任が無い、とは言いきれない。
…実は、緒方の「脚気菌発見」に対して、
異議を申し立てていた医学者がいました。
北里柴三郎です。1853~1931年。
森林太郎より9歳ほど年上。
北里は緒方と熊本大学医学部の同期生。
3年ほど早く東京医学校に入った緒方が
北里の上司となりました。
その緒方の計らいで、ドイツに留学できた。
しかし北里は、恩義ある緒方に対して、
「科学者」として論争を仕掛けたんです。
脚気菌発見は間違いです!と。
…東大の権威を守るため、緒方、森林太郎、
それに林太郎の上司たちは、北里の説には
「死んでも」従えなかったのでしょう。
北里柴三郎は東大閥に逆らい、干される。
しかし福沢諭吉などの援助を得て
研究所や後の慶応医学部などをつくるのでした。
最後にまとめます。
本記事では「脚気」を軸に
森林太郎(鷗外)と北里柴三郎の
意外な接点を紹介してみました。
ドイツに留学し、医学を修めた二人。
しかしその姿勢は時代や権威に翻弄され、
別々の道へと分かれていった…。
林太郎/鷗外は死に際して
以下のように言い残しています。
…どんな心境だったのでしょうか?
『宮内省陸軍皆縁故アレドモ
生死別ルヽ瞬間 アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス
森林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森林太郎墓ノ外 一字モホル可ラス』
※同じくビタミン欠乏症の一つである
「壊血病」についてはこちら↓
『壊血病の解決 ~長い航海、長い後悔~』
※森鷗外については、こちらの記事も↓
『森鷗外、りんたろうの外遊と苦悩』
※関川夏央さんと谷口ジローさんの漫画、
『「坊っちゃん」の時代(第2部) 秋の舞姫
―凛烈たり近代なお生彩あり明治人』では
森鷗外の生涯が描かれています↓
※北里柴三郎については
伊藤智義さんと森田信吾さんの漫画、
『栄光なき天才たち』がわかりやすいです↓
合わせてぜひどうぞ!
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