テストに出ない、出しづらい歴史 ~評価の是非~
歴史を「評価」することについて書きます。
私は先日、歴史を四つに分けて
仮定して記事を書きました。
このうち、いわゆる「学校教育」で
中心に学ぶのは、下の二つ。
ナショナル・ヒストリーは
日本で言えば日本史です。
グルーバル・ヒストリーは
一国の枠に留まらない歴史で世界史。
…ただし「個人史」や「集団史」を
全く扱わないか、というとそうでもない。
例えば、学ぶ人本人、自分自身のことを、
「キャリア教育」の文脈で学ぶことはある。
自分自身の歴史について確認し、
将来どう過ごすかなどを考える。
集団史については、
「郷土学習」がありますよね。
「自分たちのまちのことを学ぼう!」
「〇〇県の歴史」などです。
また、日本史や世界史においては、
織田信長やナポレオンなど、
有名な人のパーソナル・ヒストリーを
先生が「お話」してくれることもある。
「徳川幕府」などの集団の
ワンチーム・ヒストリーを学ぶこともある。
あくまで四つの区分は仮定で
厳密に分かれるものではなく、
お互いがつながり合っている、と言えます。
これも、当たり前です。
あくまで「範囲」「見方」の区分に過ぎない。
「誰か一人に注目した歴史」
「集団そのものを扱う歴史」
「国の成り立ちなどの歴史」
「世界全体を見ていく歴史」
この四つの間には優劣も何もない。
どこまで扱うか、
どう歴史を見るのかの違いがあるだけ。
ただ、狭くなればなるほど「具体的」、
広くなればなるほど「抽象的」になります。
これまた当然で、
広げれば登場人物、利害関係者が増えるため、
いわば「気を遣う」人たちが増えてくる…。
『評価』という観点から見た場合、
歴史を学ぶ学習者が
ある歴史を解釈して判断する時に、
などのように、内心で評価するだけなら
別に構いませんが、
それを言葉にして「外に表明」するときは
気を遣わなければいけなくなります。
…いささか極端な書き方をしました。
『評価』は良い/悪いだけではない。
これは単純な「価値判断」に過ぎない。
また、範囲が広がるにつれ、
一概には断言できなくなってくる…。
いわば「部分的で限定的な評価」。
そもそも、起こったことが全部
機械的・自動的に誰にでもわかる言葉で
残されている、とも言えません。
「歴史の闇」に葬られたことは数多く、
「偽宣伝」「誤った通説」が
信じられていることも多い…。
例えば、織田信長という人物の歴史を
例に挙げてみましょう。
彼はまず尾張を統一するわけですが、
その過程では、親兄弟と血で血で洗う
死闘を繰り広げています。
やらなきゃやられる戦国時代、
いわば「正当防衛」。
東から今川義元が攻めてきた時、
「桶狭間の戦い」で彼を奇襲して倒した。
これも「正当防衛」的な部分です。
ただその後の、美濃を攻め取ったり、
足利義昭を奉じて上京したり、
比叡山を焼き討ちしたり、
ついには本能寺で滅んだり、
これは彼の「自己判断、自業自得」
という面があります。
この彼の事績に対する『評価』ですら、
人によって見方がだいぶ変わるでしょう。
「好き/嫌い」という単純な評価でも、
などのように、比較的平和な現代から
振り返って見るのか、同時代から見るのか、
はたまた違う国から見るのかによって
だいぶ変わってくる…。
日本的な視点から言えば
「信長は風雲児、前人未踏の業績!
ゲームにもなった!」
と言えるかもしれませんが、
世界的な(他の国から)の視点で言えば、
「ノブナガは朝廷も尊重しているし
将軍も追い出すだけで処刑しない、
なんともヤサシイ覇王、お殿様ですね!
朝廷や幕府関係者を滅ぼさなかった」
と言えるかもしれない。
ことほどかように、歴史を解釈し、
『評価』するのは奥深いものです。
評価する人が、どのような立場・観点に立って
どこまで書くか(表現するか)により変わる…。
…ゆえに、ですね。
学校教育、または「入学試験」などで
「歴史」を『評価』するのは難しいんです。
算数・数学のように
1+1=2という明確な決まりが
あるわけではない。
もっともこれは「歴史の評価」といっても
「学習者が、紙上で、自分の記憶だけで、
それを再現できるかどうか採点者が評価する」
という限定的なお話。
「織田信長を好きか嫌いか?」
という問いはペーパーテストでは出ない。
○×のつけようがない。
ましてや世界史ともなれば
「様々な立場・事情がある」ので、
『公に知られた』
『無味無臭の味気ない事績や事実』を
「知っているか、表現できるか」によって
採点者は学習者を評価せざるを得ない…。
これは「学校教育」で「歴史」を
評価する限界、とも言えるでしょう。
「試験で評価される歴史」は、
限定的にならざるを得ないんです。
(だから暗記的な学習になりがちで
「歴史嫌い」が増えていく…と言えます)
パーソナル・ヒストリーや
ワンチーム・ヒストリーは、まず
中学や高校・大学の試験では出ません。
公教育においては、
ナショナル・ヒストリーや
グローバル・ヒストリーについて、
公の「公式見解」を知っているかどうか、
そこが問われる。
…そう考えていった時、
「学習者が『歴史の内容』の学習を
『入学試験』で問われて評価に使われるのは
果たして適切か?」という
根本的な疑問すら生まれるのです。
(もっとも、入試科目から外れると
取捨選択され、捨てられ、学ぶ人が激減し、
ひいては歴史で食っている人の職が無くなる、
という裏事情もありますが…)
最後にまとめます。
本記事では歴史を『評価』することの
あれこれを書いてみました。
本記事では、学校教育に限った話が
多かったので、学校教育の枠を外せば
「歴史の教科書にあまり載っていない」
パーソナル・ヒストリーや
ワンチーム・ヒストリーを「こそ」
「生涯にわたって」学んでいくほうが
学習者にとっては学びが多い、と思います。
公教育ではどうしても「公正な建前」が必要。
範囲が広ければ、利害関係者も増えてくる。
自分自身で学習するだけなら、
フリーダムに内容も範囲も方法も
自分自身で設定できますので…。
読者の皆様も、まずは手始めに
自分自身の「パーソナル・ヒストリー」を
紐解き、表現してみてはいかがでしょうか?
※「ファミリー・ヒストリー」もオススメです↓
※「パーソナル・ヒストリー」
「自分史」の視点で
自分自身の歴史を自分で表現しておくことは、
就活や転活にも使えます↓
※学校教育で「世界史」が生まれた過程はこちら↓
『歴史の描き方、生まれ方 ~世界史の誕生~』
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