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陸奥宗光は「むつむねみつ」と読みます。
「かみそり大臣」とも呼ばれた
切れ者の外務大臣として名が残る人物!

日本史の教科書風に言えば、

「幕末の江戸幕府が結んだ
不平等条約の内容の一つ、
『領事裁判権』(いわゆる治外法権)
の撤廃に成功した」

という実績がある人です。

…しかしですね、この人、
「坂本龍馬の同志(兼パシリ)」として
知られていることも多い。

坂本龍馬は、まあ、超有名人です。
彼がつくった亀山社中・海援隊に加わり、
龍馬とともに行動した。
「(刀を)二本差さなくても
食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」

龍馬に言わしめるほどの
弁舌と商売の才能にあふれていた。

…ただ、龍馬は、中岡慎太郎とともに
近江屋で暗殺される。

だいたい歴史のドラマで描かれるのは
ここまでで、その後、陸奥が何をしたのか、
どうやって「かみそり大臣」に
なったのかは、あまり知られていません。

本記事では、彼の生涯を紹介します。

1844年生まれ、1897年に死去。
坂本龍馬が1836年生まれですから、
八歳ほど年下。

いまの和歌山県、紀州藩の藩士の出自です。
東北、奥州の伊達氏から分家して
駿河に土着した駿河伊達氏の後裔とも。
そのため、青年の頃までは
「伊達小次郎」「陸奥陽之助」
などと名乗っている。

実家は、貧しかった。

1858年、後年自分が改正していく
「日米修好通商条約」締結の年に、
14歳頃の彼は江戸に出ていきます。
寺男として筆耕(字を書く仕事)などで
生計を立てながら、勉学に励む。
この江戸で、
長州藩の桂小五郎や伊藤俊輔(博文)、
土佐藩の板垣退助らと交流を深めます。

1863年、幕臣の勝海舟がひらいた
「神戸海軍操練所」に入所。
ここで塾頭をつとめた勝の弟子、
坂本龍馬と出会うことにより
彼の運命は変わっていくんですね。

…しかし、1867年、龍馬暗殺。

陸奥は、キレました。

暗殺犯が紀州藩をバックに持つ紀州藩士
「三浦休太郎」という男だと、断定する。
何と、龍馬の仇討ちだとばかりに
この三浦を襲撃するのです。
「天満屋事件」と言います。

三浦は、護衛に新選組を連れていた。
有名な斎藤一などがいます。
しかし陸奥は恐れない。
同志十六人と襲撃を敢行。
どんだけ龍馬を尊敬してたんだ、陸奥。

(ちなみに三浦は負傷したものの
命に別状はなく、後に
東京府知事にまで出世しています)

さて、そんなキレッキレの陸奥、
1868年、岩倉具視に意見書を出します。
「王政復古の布告を宣言しましょう」
岩倉も龍馬を知っている。
その同志の陸奥、こいつは使えるな、と
「外国事務局御用掛」に推挙するのです。

陸奥は、見事にこの期待に応えた。

アメリカと交渉して、
ストーンウォール号という軍艦を
取り戻してくるんですよ。
必要な金は大阪商人たちから借りた。
この功績により、大阪府権判事、
いまの大阪府知事のような地位に就く。

隣の摂津県知事、兵庫県知事も歴任。
伊藤博文も兵庫県知事を務めたので
彼とも親交を深めます。
故郷である紀州藩の改革も手伝う。
近畿を中心に、大活躍だったんですね!

…しかし、陸奥は生来の
「反骨精神」を持つ男。
薩長藩閥に支配された明治新政府の
役人であることが許せなくなりました。
紀州藩・海援隊の出ですから、
藩閥とは無縁です。

木戸孝允に『日本人』という
藩閥政権を批判した意見書を出して、
1874年に官職を辞めてしまうんです。
後に元老院仮副議長という議院の役職に就く。

野に放たれた虎、切れ者の危険人物!

1877年、西南戦争が起こると、
彼は岩倉具視の依頼により
故郷、和歌山で募兵の任に着きます。
しかし、これを政府側の
大久保利通たちが危険視した。

「…あいつ、故郷で兵を集めて
西郷と兵を挙げるんじゃないか?」

そこで政府は、あの因縁のある
三浦休太郎(三浦安)を和歌山に派遣、
彼に募兵の任を与える。
1878年、反乱の容疑で陸奥は逮捕されます。
山形県の監獄にぶちこまれました。

「…えっ、逮捕されたの?
かみそり大臣はどうなったんですか?」

それがですね、陸奥はあきらめないんです。
五年間の監獄生活でひたすら勉強する。
1883年、特赦によって出獄すると、
英国留学経験のある伊藤のすすめで
イギリスのロンドンに留学します。

ここでも死ぬ気で勉強する。

欧米、特に「大英帝国」こと
イギリスの政治の仕組みを。
内閣制度とは何か、議会とは何か。
同時に大英帝国の老練な
「外交政策」も吸収していく。

1886年帰国。パワーアップした陸奥は、
外務省に務めることになります。
1888年には、駐米公使。
1890年には、第一回衆議院議員選挙に当選。

◆自由党の大物、星亨(ほしとおる)
◆後の平民宰相、原敬(はらたかし)
◆日露戦争の頃の外相、小村寿太郎

彼らと知り合い、ともに鍛え合い、
力を養っていくことになる。

共通点は、いずれも薩長藩閥ではないこと。
星は、江戸は築地の左官職人の子ども。
原は、明治新政府の敵だった盛岡藩出身。
小村は、宮崎の飫肥藩 (おびはん)出身。
盟友の伊藤博文は長州藩出身です。
陸奥は、その薩長以外の人材を集めて、
オールジャパン、野党パワーを活用する…。

1892年、第二次伊藤内閣の外相に就任。
いわゆる「かみそり大臣」として
その斬れ味を遺憾なく発揮していきます。

1892年「日英通商航海条約」で
領事裁判権の撤廃に成功!
他の十五か国すべてとの撤廃にも成功します。
同時に「日清戦争」の準備を進める。
陸軍の名将、川上操六らと謀り、
勝利へと導いていくのです。

1895年、下関条約。
これが「陸奥外交」の結晶でしょう。

…ただ、海援隊、知事、監獄、留学と
息つく暇もない彼の人生は、
すでに病魔に侵されていました。
肺結核です。

下関条約の後「三国干渉」を受けて、
どうするべきか内閣で閣議が行われたのは、
陸奥の療養先、兵庫県の舞子でした。
1897年、死去。

最後に、まとめます。

本記事では「かみそり大臣」こと
陸奥宗光の生涯を、特に龍馬暗殺から
外相就任まで詳しく書いてみました。

彼の死後、小村寿太郎や原敬たちが
日露戦争や大正デモクラシーを
進めていくことになります。

まだ若かった海軍操練所時代、
彼は「嘘つきの小次郎」と言われ、
弁は立つが軽薄な若輩者だったそうです。
それが龍馬の死、監獄生活、留学などの
試練を経て、自分を鍛えに鍛えた…。

安彦良和さんの漫画
『王道の狗(おうどうのいぬ)』では、
陸奥宗光が重要人物として
描かれています。よろしければ、ぜひ。

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