智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
夏目漱石の小説、『草枕』の一節です。
ちにはたらけば かどがたつ。
じょうにさおさせば ながされる。
あえて私なりに超訳してみましょう。
「あんまり理詰めで考え過ぎると、衝突する」
「あんまりエモさを追い求めると、ただよう」
そんな感じでしょうか。
ロジカルと、エモーショナル。論理と、情感。
それをたったの二文でビビットに示した漱石は、
やはりただ者ではない、と思うのです。
本記事では、この「智」と「情」の
衝突についてのお話。
私は前の記事で、理系と文系の区別の話を
取り上げて、代わる言葉はないか
探してみました。そこで挙げたのが、これ。
便宜的に、このような言葉に置き換えました。
漱石の文章にあえてあてはめるのなら、
◆理系→技術専門→「智」
◆文系→人間総合→「情」
このように言い換えられるかもしれません。
◆智:「あんまり理詰めで考え過ぎると、衝突する」
◆情:「あんまりエモさを追い求めると、ただよう」
…こういうケースは、この世の中の
至る所で起きているように思います。
極めて象徴的な例を挙げましょうか。
『三国志演義』では、
孔明と張飛というキャラが出てきますよね。
この二人の衝突。
◆孔明:天才軍師:智100%?
◆張飛:猪突猛進:情100%?
…まあ、そりゃあ、衝突しますよ。
ただ、この「智と情の衝突」問題の
とても厄介なところは、
「智100%」対「情100%」には
「必ずしもならないところ」です。
人間とは複雑怪奇なもの。
無数のグラデーション、パーセンテージが
この便宜的に設定した二つの両極端の中で
入り混じっているもの、なのです。
自分から例を挙げておいて恐縮ですが、
先ほどの『三国志演義』の例で書きますと、
孔明は智100%と思われつつも、
劉備の「三顧の礼」に「心を打たれて」
弱小の陣営の「軍師」を務めるような
情にもろい部分があります
(『パリピ孔明』では駆け出しの歌手を
メジャーにしようと頑張っています)。
張飛は情100%と思われつつも、
計略を使って合戦に勝つような
意外と智略を使いこなす面もある
(横山光輝三国志の38巻のタイトルは
ずばり『張飛の智略』です)。
無数のグラデーションで、
パーセンテージが入り混じっています。
決して、どちらかだけでは、ない。
この二人は三国志演義上では
特に「お話的に創られたキャラ」ですから、
わかりやすいですけれども、
関羽とか劉備とか曹操とか、
他のキャラを考えてみると、だいたいが
智と情が入り混じった、ケースバイケースの
複雑な成功と失敗の情景が描かれている
(あの曹操も、智謀に長けた奸雄として
書かれながら、絶世の美女に情を移して
あわや全滅、なんていうケースもあります。
横山光輝三国志だと12巻「南陽の攻防戦」)。
…さて、三国志から、話を戻しましょう
(このままだと語り過ぎて脱線しそうなので)。
「智」と「情」の衝突の話に。
「キャリア」、特に「仕事」を考えた時に、
どちらのアプローチで進めるべきか、
どのような方向性で自分は進んでいくべきか、
迷ったりはしませんか?
私は、けっこう迷ったことが、多かった。
というか、今でもかなり迷います。
◆「論理的に考えれば、絶対、この方法だ!」
◆「だけど、心情的には、こちらのほうが…」
私の中の、孔明と張飛がせめぎ合うんですよ。
「殿、いま火計を仕掛ければ、成功しますぞ…」
「難しいことはいいから、全軍突撃しようぜ!」
…いかんいかん、気を抜くと三国志だ。
ともかく、論理と情感が争うんです。
これまた当然のことで、「人間」相手に
お仕事をする場合は、どちらかだけで
うまくいく、なんてことは、あまりない。
なぜなら、人間は論理的であり、かつ、
情感的だから。どっちの面も、持っているから。
あまり話題に深入りするのは避けますが、
ロシアとウクライナの戦争のニュースを見ても、
そういうことを実感します。
論理的に考えれば、「そこまでするか?!」
と思います。ありえない。かえって逆効果。
これが、人間のすることか、と思ってしまう。
でも、情感的には
「これもまた人間の業なのだろうか…」と
考えてしまうこともあるんです。
どれがリアルでどれがフェイクかわかりませんが
取捨選択された情報は、情感に訴えるものが多い。
戦争という極限状態においては、論理が吹き飛び、
情感が暴走しがちなのかもしれません…。
ただ、だからこそ。考えることを、放棄しない。
仕事においては、自分の中の
孔明の部分「智:論理」と
張飛の部分「情:情感」の両方を無視せず、
さらに相手の「智」「情」をも
しっかりと想像した上で、
適切な手を打っていきたいものです。
どんなに熱くなっても、
論理を無視しないように。
どんなに冷たく考えても、
情感を無視しないように…。
まとめていきましょう。
冒頭の夏目漱石の『草枕』では、
このように文章が続きます。
私はこの「意地」を、あえて「維持」に
読み替えて考えることがあります。
現状の維持だけを考えると、本当に窮屈。
考えが固まりがちです。
意地を、客観的に考えてみる。
維持だけに、固執しない。
そう考えた時に、
「角を立てない智」「流されない情」を
考えつつ、うまく現状を打破していく…。
そんなバランスもまた求められるのかな、と
思います。どれかだけに偏り過ぎるのは、
あえて言えば、思考停止、思考放棄です。
時には必要かもしれませんが、
どれかに全振りして
意地になるのは、危険極まりないのです。
あの張飛だって、智略を使うのですから…。
さて、読者の皆様は、いかがでしょうか。
「智」に偏ってはいませんか?
「情」に流され過ぎていませんか?
…「意地」になってはいませんか?
とかくに住みにくいこの世の中で、
どのように住んでいきますか?
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