物部氏の謎と日本初の公開図書館
古代の日本において「物部氏」は
非常に謎が多い一族、とされています。
もののべし(もののべうじ)。
…日本史の教科書においては、
どうしても「やられキャラ」として
書かれてしまいがちな一族です。
というのも、仏教が日本に入ってきた時に
「排仏派」だったから。
日本には古来からの教えがあるから、
外から入ってきた仏教を「排」そうとした。
認めなかった。
これに対抗したのが
蘇我馬子などの「崇仏派」ですね。
聖徳太子(厩戸皇子)などもこちら側。
どっちかが勝ったか、というと、
仏教を擁護・普及する崇仏派が勝つ。
物部氏の物部守屋は、
蘇我氏や厩戸皇子たちに倒されます。
これが587年のこと。
聖徳太子が摂政となるのは593年ですから、
その前のあたりのお話です。
…ただ、物部守屋は倒されたものの、
物部氏全体が滅んだわけではない。
しばらく勢いを保つ。
ただ9世紀、平安時代あたりには
貴族としては没落していったそうです。
本記事ではこの謎多き一族、
「物部氏」について書いてみたいと思います。
非常に歴史が古い一族です。
「初代の天皇」神武天皇よりも前に、
大和国(現在の奈良県)で栄えた豪族。
日本神話に出てくる「饒速日命」
(にぎはやひのみこと)が祖先だと言われる。
…もちろん「神話」ですので、
どこまでが事実かは永遠の謎ですが、
とにかく古い豪族なのは間違いない。
『日本書紀』『古事記』によれば、
神武天皇(イワレビコ)に
饒速日命(ニギハヤヒ)が帰順した。
天皇家の臣下となるんですね。
古くから天皇家に仕えてきた一族…。
鉄器と兵器を司っており、
いわば「ものをつくる」一族。
軍事に明るかった。
同じく古くから天皇家に仕えてきた
大伴氏(おおともし)と並んで、
有力な豪族の一員となります。
兵器のことを「もののぐ」と呼びます。
ここから物部「もののべ」という
名前が生まれたとも言われる。
そう言えば武士たちのことを
「もののふ」とも呼びますよね。
ヤマト王権の軍事・警察・祭祀。
そういったものを司った一族でした。
ゆえに、全国に広がっていきます。
東に西に、物部氏の一族が進出する。
ヤマト王権においては、
それぞれの地方を治める役職として
「国造(くにのみやつこ)」が
置かれますけれども、
物部氏がそれを担っていた地域も多い。
…つまり、ヤマト王権、
朝廷の勢力範囲が広がる過程で、
物部氏は大きな勢力を持っていった。
ただのやられキャラではないんです。
この物部氏と争ったのが
蘇我氏(そがし・そがうじ)。
蘇我氏の強みは「外交」でした。
「商売」「財政」にも携わっていた。
中国や朝鮮半島から渡ってきた
渡来人の一族、とも言われています。
ゆえに、外とのつながりにとても強い。
◆物部氏:古来の教え重視(排仏派)
◆蘇我氏:外来の教え重視(崇仏派)
「仏教」という外来の教えに対し、
このように敵味方に
分かれていったのも自然の流れでしょう。
蘇我馬子 VS 物部守屋!
ここでは馬子が勝ち、守屋は負けた。
その後、聖徳太子の政治などで
日本では仏教の普及が促されていきます。
後の奈良時代に「大仏」まで作られる…。
ただ、ですね。
物部氏に勝った蘇我馬子とその一族も、
ずっと力を持っていたわけではない。
有名な「大化の改新」では、
蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に
やられましたよね。
「中臣鎌足」の中臣(なかとみ)氏。
この中臣氏は、実は、物部氏とともに
かつては排仏派だった豪族なんです。
神事や祭祀を司る一族でした。
後に中臣氏は
「藤原氏」と名前を変えます。
そうなんです。
物部氏は倒されてしまったものの、
その仲間の中臣氏・藤原氏は栄えていく。
「藤原道長」に代表されるように
平安時代には栄華を極めていく…。
では、物部守屋以後の物部氏は
どうなったのか?
はい、名前を改めました。
「石上氏」です。
いしがみ、ではなく
いそのかみ、と読みます。
奈良時代のちょっと前には、
708年には石上麻呂が左大臣にまで出世。
息子の石上乙麻呂は中納言に、
さらに息子の石上宅嗣(やかつぐ)は
大納言にまで昇り詰めています。
宅嗣は、日本で初めての
公開図書館である「芸亭(うんてい)」を
平城京につくったことでも有名。
この当時、書物・本はとても貴重で、
それを一般公開するのは画期的なことでした。
仏教の導入に反対した物部守屋でしたが、
その末裔、石上宅嗣は仏教にも儒教にも詳しく
当時の最高の文化人の一人とも言われた。
「物事の実体のあるなしに
とらわれることなく、また己の欲望を忘れ、
次の世代の者には世俗を超越して
真理に辿り着いてほしい」
そのように石上宅嗣は芸亭について
自ら書いています。
物部氏は滅亡するどころか、
奈良時代あたりでは
特に文化の面で重要な役を担っていたんです。
…ただ、政治の実権、という点では
表舞台に立つことは少なくなっていきます。
というのも、石上麻呂が、
710年に奈良の平城京に都が遷される時、
旧都のほうの「留守番役」にされたから。
同じ時期に実力者だったのは、藤原不比等。
彼の藤原一族は、新しい奈良の都でも、
後の都、京都でも政治の実権を握っていく。
そのような経緯がありますので、
おそらく藤原不比等とその一族は、
物部氏・石上氏の歴史を
改ざんしたのではないか…とも考えられる。
歴史、とりわけ正史というものは、
権力闘争に勝った人によってつくられます。
そういう視点から言えば、
藤原不比等が主導して編纂させた
『日本書紀』についても、その内容を
割り引いて読まなければいけない
部分がある…と思われるのです。
◆天皇家
◆物部氏(後の石上氏)
◆蘇我氏
◆中臣氏(後の藤原氏)
他にも色々な一族はいますが、
古代のこのあたりの一族同士の争いは
かなりアツい。
時には手を結び、時には戦う。
実権を巡って相争う…。
藤原氏は平安時代の道長の頃に、
「摂関政治」によって
天皇を上に据えつつ実権を握ります。
蘇我氏も物部氏(石上氏)も、天皇家でさえ、
中臣氏・藤原氏に圧倒され、牛耳られてきた…。
その藤原氏視点での改ざんの影響を考えつつ、
謎多き物部氏の歴史を考えていかないと、
なかなか理解が難しいところが
あるように、私には思われるのです。
最後にまとめます。
本記事では「物部氏」と「芸亭」について
書いてみました。
なお、表舞台からはいなくなったものの、
全国に散らばった物部氏は、
意外なところで活躍していきます。
例えば、江戸時代の有名な学者である
「荻生徂徠」(おぎゅうそらい)の
本姓は物部氏。
「物徂徠」(ぶっそらい)と
自らを呼ぶこともあったそうです。
…読者の皆様の
家系のルーツはいかがでしょうか?
探ってみると、意外と有名な一族・人物に
つながっていく、かもしれませんよ!
※日本初の公開図書館と
石上宅嗣についてはこちらの記事もぜひ↓
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