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明治の俳人、正岡子規
1889年(明治22年)に水戸を訪れ、
後に俳句を詠んだと言われています。

『崖急に 梅ことごとく 斜めなり』

「急な勾配の崖のところにも、
その地形に合わせて
どの梅の木も斜めになって立ち、
しかし懸命に花を咲かせている」

そう、日本三名園の一つ、
「偕楽園(かいらくえん)」の梅です。

『「偕」(とも)に「楽」しむ「園」』!

この庭園がつくられたのは幕末。
徳川斉昭(なりあき)の頃です。
斉昭は、江戸幕府の「最後の将軍」、
徳川慶喜(よしのぶ)の実父。

本記事では、この偕楽園をつくった斉昭と、
幕末の水戸藩のお話を少々…。

「水戸徳川家」には
特に有名な藩主が、二人います。
二代目の「義公」こと徳川光圀。
いわゆる「水戸黄門様」です。それに、
九代目の「烈公」こと徳川斉昭

斉昭が生まれたのは、1800年です。
ペリーの黒船が来たのは、1853年、
ペリー来航の頃は五十三歳でした。

…もともと斉昭は、三男の生まれです。
藩主になる予定はありませんでした。
次男と四男は、養子に出されましたが、
斉昭は部屋住みとして藩に残された。
藩主の長男が死んだ時の保険として。

この万が一が、起こった。

1829年、藩主だった兄が死去。
将軍、徳川家斉の二十番目の子どもが
水戸藩に入る、という話もありましたが、
斉昭は人気があったんですね。
特に、水戸藩の下士層たちに。
弟である斉昭に継がせろ!という運動が
藩内で起き、めでたく後継者になる。

そういう経緯もあり、藩主となった斉昭は
特に下士層の中から、
能力主義により人材を登用していきます。

藩校の「弘道館」もつくる。
学問の師、会沢正志斎をはじめ、
藤田東湖、戸田忠太夫、武田耕雲斎…。
「水戸の三田」とも言われます)
優れた人材を、重用していく。

水戸藩は海、太平洋に面しています。

ゆえに欧米列強に対する国防については
特に関心が深かったそうです。
「追鳥狩」という「軍事訓練」を行う。
寺社の釣り鐘を供出させ、大砲を作る。
那珂湊に反射炉を作って鉄製砲を作る。

徐々に斉昭は名声を高めていき、
「攘夷の親玉」のような存在として
日本中で有名になっていきます。

…軍事面ばかりではない。

斉昭は内政面にも力を入れました。
飢饉に備えて「稗倉」をつくり、
数々の「農政改革」を行う!
農民たちに感謝するために
彼は「農人形」という銅像を作り、
食事のたびにご飯を供えていました。

そして、冒頭の「偕楽園」…!

1833年、斉昭は
藩校弘道館で学ぶ藩士の余暇休養のため、
そして領民と「偕に楽しむ」場にするために、

この庭園をつくったのです。

偕楽園と言えば梅ですよね。良い香り!
梅の異名は「好文木」と言います。
古代中国のある皇帝が、
「学問を行えば花が開き、
学問をやめると花が咲かなかった」
という故事に基づくとか。

偕楽園の中に「好文亭」という
建物もつくらせました。
これがまた、何とも眺めが良い建物で…。
偕楽園の下にある千波湖が一望できます。
食事等を籠に載せ、上の階に運べる
「エレベーター」の元祖もあります。

このように、軍事に、内政に、と
フル活動した斉昭ですが、
ペリーが来航したあたりから
「攘夷の親玉」として幕府の中央の政治に
入り込んでいくことになります。

しかしここに、強大なライバルが出現する。

その名も井伊直弼(いいなおすけ)
大老として「日米修好通商条約」を結ぶ人。
「開国」路線を、押し進めた人です。

直弼も、実は斉昭と
似たようなキャリアなのです。
彦根藩の藩主の十四男として誕生。
ずっと部屋住みの身でした。
1850年、35歳頃に、
ようやく藩主の座に就くことができた男。

直弼と斉昭、似た歩みの二人が
「攘夷か、開国か?」そして、
「幕府の将軍の後継者問題」で衝突する…!

井伊直弼は紀州藩の慶福を推しました。
徳川斉昭は自分の息子、一橋慶喜を推す。

…結果、井伊直弼側が勝ちました。
慶福は、第十四代将軍の
徳川家茂(いえもち)となります。

この頃、折りしも朝廷から
幕府だけでなく「水戸藩」にも宛てて
「攘夷をしろ!」という「密勅」が届いた。
攘夷と言えば、斉昭、水戸藩、ですから。

「…幕府を飛び越えて、たかが一藩が
朝廷とやり取りすんじゃねえ!」

この密勅問題が幕府を怒らせ、炎上する。
将軍後継者争いで敗れた斉昭は
直弼が繰り出す「安政の大獄」を喰らう。
永蟄居の刑。子の慶喜も隠居・謹慎。

さらに幕府は、水戸藩に向けて
密勅を返すよう要求してきます。

「…もし返すのが遅れたら、水戸藩改易ね」

幕府側がそう考えている、
という噂が聞こえてきた。
藩士たちは大老の井伊直弼に対して激怒。
藩論も内部で分かれて、大激論になる。

こうして1860年、あの事件が起きます。
そう、「桜田門外の変」です。
直弼は過激な水戸浪士たちに襲われるのです。

しかし、同じ1860年。

斉昭もまさかの急死をしてしまう…。
ライバルだった直弼の死の
約五か月後のことでした。

カリスマだった斉昭を亡くした
その後の水戸藩は混迷を深めていきます。

…斉昭が登用した家臣たちは?

藤田東湖は、斉昭に先んじて
1855年に地震で圧死していた。
戸田忠太夫も、同じく地震で圧死。
会沢正志斎は1863年に死亡。
武田耕雲斎は、東湖の子の小四郎とともに
「天狗党」を率いて西に向かいますが、
斉昭の子、慶喜に見捨てられる形で
1865年に斬首刑にされました。

彼らを失った幕末の水戸藩では、
藩論が割れて収拾がつかなくなる…。
(もともと、斉昭が藩主になった頃から
分裂の火種はくすぶっていたのですが)
尊攘派(改革派)と保守派(門閥派)が
お互いに潰し合いをするんです。
復讐が復讐を呼び、多くの血が流れる…。

明治維新を迎えた頃、
藩内の目ぼしい人材は散り去っていたのです。

最後に、まとめます。

本記事では、偕楽園と斉昭を糸口にして、
ちょっと切ない「幕末の水戸藩」の
一端を書いてみました。

生まれたところで烈しく生き、
そして散った烈公、斉昭…。
変わりゆく時代に対抗、退場させられ、
最後には失意の中で亡くなりました。

偕楽園を訪れた明治の俳人、正岡子規も
偕楽園の俳句を詠んでほどなく、世を去る。
34歳でした。

…ただ、時代や人は変わっても、
偕楽園の梅は、変わりません。
地震が起きようと、コロナ禍があろうと、
世界が激動の時代を迎えようとも、
その場所で毎年同じように花を咲かせる…。


散った後は梅の実になり、誰かの滋養になる。
その酸味で、刺激を与え、奮起を促す。

読者の皆様もよろしければ
偕楽園や弘道館、好文亭を訪れ、
梅の香りを偕(とも)に楽しみながら、

「烈公斉昭と幕末の歴史」
「変わりゆくこれからの時代」そして
「変わりゆく自分のキャリア」へと
想いを馳せてみてはいかがでしょう?

(梅のシーズンは激混みになりますが
冬は空いていてオススメですよ…。
もしかしたら早咲きの梅にも出会えるかも…)

※本記事は以前に書いた記事の
リライトになります↓
『烈公斉昭、偕楽園をつくる』

合わせてぜひどうぞ!

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