見出し画像

武田信玄の後継者、武田勝頼

戦国大名の中でも「最強」と言われた武田家。
それを滅亡させてしまった最後の当主。
愚かなり、勝頼!

そういった評判がついてしまいがちですが、
果たして、実際はどうなのか?

本記事では、それを
探ってみようと思います。

まず、彼と織田信長・徳川家康たちとの
戦いとして真っ先に思い浮かぶのは、

◆『長篠の戦い』

これ、ですよね。
1575年、織田・徳川連合軍と、
武田勝頼との戦い。

「鉄砲をうまく活用した織田・徳川連合軍が
騎馬隊を中心とする武田軍を打ち破った」
「この戦いの後、武田軍は衰退する」


…と、こんな風なイメージがあり、
私もそう思っていたのですが、

本当にそうなのでしょうか?
この戦い「だけ」が滅亡の原因だったのか?

そこを考えてみようと思います。

まず、本当に「長篠の戦い」で
武田軍がボコボコになったのなら、
なぜすぐに信長たちは
武田家を滅亡させなかったのか?

武田家の滅亡は、1582年です。
七年後。
あの「本能寺の変」と同じ年。

…ちょっと、時間かけすぎじゃないか?

「いやいや、信長や家康は、
長篠の戦いで勝利したけど深追いはせず、
一気に滅ぼそうとはせずに、
武田家が衰退するのを待ったんです」

これが、一般的な説明。
確かにこの戦いによって、
武田家の重臣たち、信玄の優れた家来たちは
何人も死んでいます。

ですが、当主の武田勝頼は、生きている。
そして、この重臣たちが死んだ、ということは、
必ずしも勝頼にとって、マイナスばかりでは
なかったのではないか…。


つまり、長篠の戦いそのものは、
一つの分岐点ではあったものの、
武田家滅亡の決定打、というところまでは
いかなかったのじゃないか…。

そうとも考えられるのです。

もう少し、勝頼の状況を考えてみましょう。

彼は、諏訪家の出身です。
長野のほう。
山梨、信玄の本拠地のほうでは、ない。
というのも、信玄が侵略して奪い取った
諏訪の姫を母に持つ存在なのです。

正式な嫡子である信玄の長男、
武田義信は、ごたごたがあって殺されます。
そこで、勝頼が後継者になった。

信玄は、死ぬまで総大将の地位にあり、
勝頼は、どちらかというと補佐的な存在。
そんな彼が、当主の座に就いたのは
1573年、長篠の戦いの二年前のことでした。

勝頼の体制、盤石ではなかったんです。

だからこそ彼は頑張って、外征します。
信玄の時より、領土が広がります。
武功を挙げて、自分の存在を認めさせる。

誰に? 信玄の家来たちに。
何しろ親と子ほど世代が違う。
たぶん、なめられていたことでしょう。

そんな目の上のたんこぶの
古参の信玄の家来たちの多くが、
長篠の戦いで亡くなったんです。


…むしろこの結果によって、
勝頼新体制、世代交代が進んだのでは?
そう考えた時、必ずしも長篠の戦いは
「致命的なもの」とは言えないように思える。

「いやいや、事実、七年後に、
武田家は滅びますよね?
じゃあ、何が原因だったんですか?
勝頼、何かやらかしたのでは?」

…そうなんです。
実は、勝頼、長篠の戦いよりもっと
致命的な失敗をしてしまっている。
最近の研究でも、こちらのほうが
武田家衰亡の原因と言われています。

1578年、お隣の越後の上杉家で起こった
「御館の乱」に対する対応。
これで失敗したんです。

御館の乱。おたてのらん。

武田信玄と覇を競った上杉謙信が、
脳卒中でいきなりこの世を去る。
そこで、上杉景勝と上杉景虎が
後継者の座を巡って争う。
これが、御館の乱。

ここで勝頼は、両者が和睦するよう尽力します。
対して、関東地方で力を持っていた
東の北条家は、明確に景虎側につく。
というのも上杉景虎は、
実は北条家の三代目、北条氏康の七男。
上杉謙信の養子になった男だから。

…結果、上杉景勝が勝ち、
謙信の後継者になりました。
北条家出身の上杉景虎、死亡。

「和睦させようとしたんだ。
勝頼、成功したんでは?」

…それがそうじゃないんだな。

上杉景勝、後継者の座に就いたはいいものの
この越後を二分する戦いで大ダメージを受け、
謙信の時ほど、強くなくなった。

つまり、勝頼は、弱くなった上杉家を
味方につけ、その代わりに、

関東地方の強敵、北条家を
「完全に」敵に回してしまったんです。

和睦なんぞ試みずに
景虎のほうを支援すべきだった。

結果、どうなったか?

武田家は、東に北条家、西に織田信長、
南に徳川家康、敵に囲まれてしまいました。
味方の上杉景勝は、そんなに強くない…。

御館の乱で北条の意向に沿わなかったために、
周りを敵だらけにしてしまったんです。

信玄は、「信長包囲網」をつくった。
勝頼は逆に「勝頼包囲網」に囲まれた。

勝頼本人はいいでしょう。
自分で決断したことなので。
でも、その家来たちは、尻ぬぐいのため、
あちこちで戦わされるはめになります。

不満が、たまっていく。

木曾義昌、小山田信茂、穴山梅雪…。
武田家の外側を守っていた
家来たちは、勝頼に見切りをつけます。

三方向を敵に囲まれた。
いつ終わるともしれない合戦。
人も金も浪費、もう我慢の限界…!

「人は石垣、人は城…」と言っていた、
信玄の時に比べ、
武田家にほころびが見えてきます。


それまで、西の毛利や石山本願寺との
戦いに目を向けていた信長、
チャンスは逃しません。

徳川家康、北条家とタッグを組み、
武田家を滅ぼすべく、兵を挙げました。

三方からの大軍に恐れをなしたか、
裏切者が続出。
あわれ勝頼は天目山というところに
追い詰められ、自害しました。

1582年、武田家の滅亡です。

…滅亡後、武田家の旧家臣たちは、
「なぜ滅亡したのか」を考えたと言います。

その理由として第一に挙げられたのは、

長篠の戦い、ではなく、
御館の乱における北条家との仲違いだった、
と言われています。


結果論ではありますが

もし勝頼が和睦などさせようとせず、
最初から北条家出身の上杉景虎の
味方をしていたら…?

武田・上杉(景虎)・北条の
三つの家がタッグを組み、
信長や家康に対抗できていた可能性は
十分にある。

歴史が変わっていた、かもしれない。

まとめましょう。

本記事では、武田家滅亡の理由は、
「長篠の戦い」だけではなく
「御館の乱への対応によって
北条家を完全に敵に回したこと」
という説を紹介
しました。

もちろん諸説ありますし、
長篠の戦いの敗北が滅亡の遠因になった、
ということは言えますが、

少なくとも「長篠の戦い『だけ』で
すぐ武田家滅亡ということはない」。

…歴史は、どうしてもはしょられて
伝わってしまいます。
人間は、要点を押さえた、
簡潔でわかりやすいストーリーを
求めてしまうもの。


そこをちょっと立ち止まって、

「なぜ長篠の戦いから武田家滅亡まで
七年もかかったのだろう?」と考える。
そうすれば、御館の乱、などの情報は
いくらでも検索できます。

そういうことができるのもまた、
人間ではないか、と私は思うのです。

※本記事は、以前に書いた記事のリライトです。

『武田勝頼の誤算、長篠よりも』↓

合わせてぜひどうぞ!

いいなと思ったら応援しよう!

いなお@『ミシェルとランプ』連載・小説PDF ココナラで販売中/実用地歴提案会ヒストジオ
よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!