関東地方の戦国 ~後北条氏の勃興~
源頼朝が鎌倉に幕府を構えたように、
関東地方には多くの武士団がいました。
ゆえに、
関東地方は他の地方より争いが激しく、
一足先に戦国時代に突入します。
その戦乱を最終的に収めたのは、
1590年「イッコクマルク治める秀吉」
で覚える「豊臣秀吉」なのですが、
そこに至るまでの紆余曲折は
なかなか知名度がありません。
複雑すぎて…。
そこで本記事では、
ダイジェスト版で、まとめる形で、
「関東地方の戦国時代の流れ」を
書いてみたいと思います。
◆1338年:足利尊氏 征夷大将軍
◆1438年:永享の乱
◆1455年:享徳の乱
◆1467年:応仁の乱
◆1493年:北条早雲 伊豆を奪う
◆1546年:河越城の戦い
◆1338年:足利尊氏 征夷大将軍
「イザ ミヤこ へと足利尊氏」の
ゴロ合わせで覚えます。
鎌倉幕府は、1333年に滅亡。
後醍醐天皇が「建武の新政」を行うも、
足利尊氏が征夷大将軍になって
幕府をつくり対立、南北朝時代へ…。
(のちに1392年、足利義満がまとめて
「室町時代」になりますが)
関東地方はどうなったかというと、
それまで幕府があった鎌倉から、
京都・近畿のほうに幕府が移った。
つまりは「見捨てられた」形です。
しかし重要な土地である、
ということに変わりはなく、
室町幕府は「鎌倉府」という役職を置く。
この鎌倉府の長官が「鎌倉公方」。
補佐役を「関東管領」と呼びます。
鎌倉公方には足利〇〇さんが就任。
関東管領には上杉〇〇さんが就任。
関東地方の政治は、
『足利&上杉』のタッグで治める。
そんな流れが、室町幕府の最初の頃です。
◆1438年:永享の乱
足利尊氏が将軍になったちょうど100年後。
「永享の乱」が関東で勃発します。
簡単に言えば『足利VS上杉』
そう、この両家が仲違いを起こすんです。
1409年、第3代の鎌倉公方、
足利満兼が32歳の若さで急死する。
長男の足利持氏が後を継ぐも、
第4代の鎌倉公方はまだ12歳だった。
…上杉家が、子どもの鎌倉公方に
従うのを良しとしないんです。
1416年、上杉禅秀が反乱を起こし、
足利持氏を駿河(静岡)に追放します。
しかし持氏は翌年、帰ってくる。
京都の室町幕府とも対立します。
時の将軍は、第6代の足利義教。
鎌倉府VS室町幕府!
この間に立って調整したのが、
上杉憲実(うえすぎのりざね)です。
…でも、訳知り顔で「まあまあ」と
なだめる上杉憲実を、
足利持氏はこころよくは思いませんでした。
1438年、足利持氏は、憲実を討伐に行く。
しかし、室町幕府の後ろ盾を得た
上杉憲実に逆にやられてしまうんです。
足利持氏、自害。
これが「永享の乱」です。
◆1455年:享徳の乱
つまり、足利&上杉で治めていた関東が
「足利VS上杉」になってしまい、
足利家の当主がやられる、という流れ。
…遺恨が残りますよね。
足利持氏の後継者が成氏(しげうじ)。
上杉家に恨みを持っています。
上杉憲忠(のりただ)を冷遇し、
ついには憲忠を討滅してしまうんです。
この事態を重く見たのが、室町幕府。
「関東が混乱している。
足利家たちが幕府に反抗的だ。
上杉家に加勢せよ!」
今川範忠(のりただ)たちが上杉に協力、
足利成氏を倒しに行きます。
足利成氏は「古河」に逃げます。
これが「古河公方」と呼ばれます。
一方、室町幕府は
反抗的な足利成氏の代わりに、
足利政知(まさとも)を派遣して
鎌倉府の鎌倉公方に就任させる。
…ですが、この政知、都から来た、いわば
落下傘候補のようなポッと出の人ですよね。
関東武士団の指示を得られずに、
伊豆の堀越というところに逃げます。
これが「堀越公方」と呼ばれます。
…つまり、足利さんたちの鎌倉公方が
「古河公方」と「堀越公方」に分裂。
この間に実権を握ったのが
上杉さんたち、と言いたいところですが、
この上杉家でも内紛が起こる。
宗家である「山内上杉家」に対して、
「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」
が勢力を伸ばしていくんですよ。
◎山内上杉家:堀越公方を支持
◎扇谷上杉家:古河公方を支持
簡単に言えば「足利&上杉」だったのが
「足利VS上杉」になって、
さらに、それぞれが分裂した感じです。
◆1467年:応仁の乱
室町幕府は、この関東の混乱を
何とか収めようとしますが、
逆に8代将軍の足利義政の頃に
「応仁の乱」が起こります。
全国に戦乱が飛び火する…。
◆1493年:北条早雲 伊豆を奪う
その混乱の中で出てきたのが、
有名な「北条早雲」です。
元の名は、伊勢新九郎盛時。
本人は「北条早雲」と名乗ったことはない。
(かっこいい名前なのでこちらのほうが
有名になっていますが…)
室町幕府の政所の執事を務めた
伊勢氏の出自、と言われます。
姉が今川家に嫁いだのを機会として
京都から駿河に向かう。
その才能で駿河の内紛を収めて、
興国寺城という現沼津市の城をもらう。
ここを足がかりに関東に進むんです。
伊豆の堀越公方を攻める。
ついには相模の小田原城を奪取する。
いわゆる「後北条氏」の勃興ですね。
◆1546年:河越城の戦い
この西からやってきた
ポッと出の新興勢力に対して、
長年ケンカをしていた足利・上杉の両家も
団結して対抗しようとします。
1546年「河越城」で戦いが起こる。
山内・扇谷両上杉家の大軍に、
北条方の河越城が包囲されるんですね。
敵は関東連合軍、約八万。
城の中には約三千人しかいない…。
絶体絶命のピンチ!
しかし北条家の当主、北条氏康は
西の今川軍と和睦を行い、
救援にかけつけます。
それでも約一万です。敵は約八倍。
氏康、一計を案じる。
撤退して戦う気がないように見せる。
故意の敗戦を繰り返すんです。
…これで油断した連合軍に、いきなり
氏康は奇襲をかけて戦いを挑みます。
城からも討って出て、大勝利!
この戦いによって、
長らく関東を支配してきた
足利・上杉両家は没落していき、
関東地方の主導権は
後北条氏へと移ることになりました。
新旧勢力の交代、ですね。
最後にまとめます。
本記事では、南北朝時代・室町時代から
戦国時代に至るまでの
関東地方の情勢を書いてみました。
こうして「関東の覇王」となった
後北条氏ですが、
1590年、天下統一を目指す
豊臣秀吉に滅ぼされてしまいます。
室町幕府の混乱の隙をついて
勢力を伸ばした後北条氏も、
天下人の秀吉にはかなわなかった…。
しかし、その背景にはあまり知られざる
関東の歴史があることを、
改めて確認した次第です。
※ゆうきまさみさんの漫画
『新九郎、奔る!』は、
伊勢新九郎、つまり北条早雲が主人公です。
このあたりの時代のことが描いてあります。
面白いので興味のある方は、ぜひどうぞ!