罪なくして斬らる ~鞠躬尽瘁の人~
小栗上野介、おぐりこうずけのすけ。
小栗忠順(おぐりただまさ)の呼び名。
1827年~1868年の人。
ええ、よく「徳川埋蔵金を追う!」などの
番組の導入で名前を聞く人ですね。
「勘定奉行」を務めたことがあるので
そんな噂が出たのだ、と思います。
ただこの人、勘定奉行だけでは、ない。
外国奉行、寄合席、小姓組番頭、
江戸南町奉行、歩兵奉行、講武所御用取扱、
陸軍奉行並、軍艦奉行、横須賀製鉄所御用係。
他多数、ものすごい数の役職を務めた人です。
履歴書、職務経歴書が何行あっても足りない。
「コミュ強の外交官」岩瀬忠震(ただなり)。
「貨幣通貨の理論家」水野忠徳(ただのり)。
この二人とともに「幕末三俊」と言われた。
…ただ、実際にどんな人だったのかは
あまり知られていません。
それもそのはず。最後の将軍徳川慶喜は、
「官軍」となった討幕軍に恭順し、
薩長につながりのある勝海舟を登用して
争わないようにしたから。
当然「争おうとした側の主戦論者」は
詳しく語られない。歴史から消される。
本記事では、小栗忠順の生涯を追います。
1827年、旗本の家に生まれます。
幼名は剛太郎。勝海舟は
1823年の生まれですから、少し年下。
学問もできる、剣の腕も立つ、文武両道!
1855年、父親が死去し、家を継ぎます。
そんな彼を見出したのが「井伊直弼」。
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、
お返しの使節として遣米使節を送る時に、
1860年、目付(監察)として渡米。
ペリーが来た時に「詰警備役」を
務めたので、国際マナーも慣れていた。
正使より目付の小栗のほうが偉そうで、
代表だと勘違いされたそうです。
…この使節には、重要な役目がありました。
それは、日米修好通商条約で結ばれた
「不適切なレート(交換比率)」を
正しくすること。
アメリカ側を相手に、堂々と交渉する。
「そちらのドル貨幣とこちらの小判を
溶かして、どれくらい金が入っているか
ちゃんと確認してもらいますかね?」
その毅然とした小栗の態度に、
アメリカの報道記事で絶賛されたそうです。
(この渡米では是正までは至りませんでしたが)
アメリカの工場群も見学し、
進んだ製鉄や金属加工の技術に驚愕します。
その記念にネジを持って帰りました。
大統領にも謁見。大西洋経由で帰国。
たっぷり欧米を見て回った小栗は、
「外国奉行」の仕事を任されるのでした。
…ところが帰国してみると、井伊直弼は
桜田門外の変ですでに亡い。
政局はきな臭い。幕閣たちには愚人も多い。
後手後手を踏むことも多かった。
たぶん、聡明な小栗ですから、
「幕府という組織、もうだめでは?」と
わかっていたと思います。
しかし、希望はあった。
聡明な徳川慶喜が
リーサルウェポン?として
まだ後ろに控えていたから。
1862年、勘定奉行となり財政を立て直す。
日本初の西洋式火薬工場を作る。
1863年、横須賀に製鉄所を作り始める。
フランスの技師ヴェルニーを任命し、
フランス語の学校まで作る。
さらに、幕軍強化のために、
幕府陸軍をフランス軍人に指導させ、
フランス式の最新兵器を輸入します。
日本で初めての本格的な
「カンパニー」まで作ってしまう。
坂本龍馬の「亀山社中」なんて目じゃない。
江戸、京都、大阪、三都の商人と結び、
全国レベルの流通を握ろうとした。
大規模な「兵庫商社」を設立する。
こうして書き出していくと、
明治政府の「富国強兵」政策を
小栗が先にやっていたことがわかります。
官営工場、軍備増強、経済の活性化!
…当然ながら、討幕勢力としては、
小栗の存在が怖い。
彼らに危険視されていく。
1867年、十五代将軍の徳川慶喜は
「大政奉還」の奇策を繰り出しました。
あえて政治の権限を放り出すことで、
朝廷側を混乱させ、徳川家中心の
大藩同士の合議体制に移行しよう、
という狙いがあったのでしょう。
ところが、その奇策を逆手に取られた。
「辞官納地」を慶喜は迫られる。
受け入れられない。幕臣も激怒。
「鳥羽・伏見の戦い」へと突入します。
ここで慶喜、驚きの行動に出る。
大阪から脱出、江戸に勝手に帰る。
1868年1月、江戸城で開かれた評定において、
小栗は堂々たる作戦を提案しました。
ぎりぎりまで引き付けておき、
補給線が伸び切ったら分断して倒す…!
「朝鮮戦争」でマッカーサーが
とった作戦と同じですね。
「もしこの作戦が実行されていたら
みんなやられていただろう」
後にそう言ったのは、討幕軍の「軍師」、
大村益次郎でした。
しかし、ですね。
その時、慶喜の肚は決まっていた。
徹底的に恭順。歯向かわない。
勝海舟を登用し、和議を結ばせる。
主戦論者は脱出して「彰義隊」や東北、
函館などに戦場を移すことになります。
いわゆる「戊辰戦争」。
新選組の残党、大鳥圭介、榎本武揚など。
当然、小栗も誘われますが、彼は断った。
米国亡命も勧められますが、これも断る。
…幕府への忠義篤い小栗は、
大将の慶喜に戦う気がないのに
戦ってもしょうがない、と思ったのでしょう。
自分が戦えば被害が出ることも分かっていた。
この記事の最後は、
彼の最後について書きます。
評定から三か月後、1868年4月。
軍監の原保太郎たちに率いられた軍が、
高崎市の東善寺で小栗を捕縛します。
二日後、彼はろくに取り調べもされずに、
斬首されました。
まさに「問答無用」の処罰!
討幕派たちは、小栗の恐ろしさを
十二分にわかっていたのでしょう。
彼を逃すことは虎を野に放つことと同じ…。
原は、丹波の園部藩脱藩浪士の出身。
岩倉具視の用心棒のような男。
岩倉や西郷たちから
「小栗は絶対に逃がさずにしとめろ!」
と厳命されていたのではないか…。
(確証は無いですが)
(ちなみに、小栗を処刑した原は、
当時、20歳過ぎの若者。
1936年まで長生きして、
各地の県知事や貴族院議員になっています)
明治政府の重要人物の一人、大隈重信は
「明治政府の近代化政策は、
小栗忠順の模倣にすぎない」と評しました。
『学問のすすめ』の福沢諭吉は、
小栗についてこう評します。
きっきゅうじんすい。
自分の苦労を省みずに、全力を尽くすこと。
後に日露戦争でロシア海軍に勝った
東郷平八郎は、小栗の遺族にこう言いました。
小栗忠順、気になった方は、
東善寺のリンクから
トートバッグをぜひどうぞ。
※大島昌宏さんの小説もぜひ。