「自由」という日本語と訳語
日本語で「自由」は借り物の言葉です。
古くは仏教用語の熟語でした。
日本独自の概念ではない。
自らに由る。自らにもとづく。
しかしこの漢字とて訳語です。
元々はサンスクリット語の「svayam」
スヴァヤンの訳語。
何かに依存しない。寄りかからない。
独立。何にも縛られない!
古代では、権力者などの他人に、
強制、支配されることが多かった。
自由が無い…。だからこそブッダは
「自由であれ!」と言ったのでしょう。
…ただ、貴族の世の中、武士の世の中、
日本史では「不自由」が常態化する。
お家が大事、個人は二の次…。
「個人の自由」は少なかった。
しかし明治時代、文明開化とともに
欧米の思想が入ってきます。
「freedom」と「liberty」!
この英語にはともに
「自由」という訳語が当てられます。
厳密に言えば、二つは意味が違うのに。
本記事では、この単語の違いから、
「自由」について考えてみましょう。
つまり、freedomは、
人間が生まれ持っている「精神の自由」
という意味合いの強い言葉。
内側から湧き起こる自由な心!
一方で、libertyは
「人工的な自由」ですね。
戦いの末に勝ち取ってきた自由。
その象徴が「statue of liberty」です。
自由の女神。アメリカ独立革命の象徴。
フランスから贈られた。
…そう考えていくと、はたと気付きます。
日本史の中でlibertyを獲得する革命、
レボリューションがあったか?
限定的なレベルではあるものの、
全国的な事例は見当たりません。
「自由民権運動」も鎮圧されましたし…。
フランス革命では、国王夫妻が
ギロチンにかけられました。
しかし江戸時代の日本で将軍とその妻が
革命軍に斬首されたか? それはなかった。
明治維新も庶民が立ち上がって起こした
「全社会をひっくり返す革命」ではなく、
薩長土肥中心の志士たちが起こした
「変革」の意味合いが強い。
なので、ピンと来なかったでしょう。
…freedomとlibertyって何?と。
でも、文明開化するためには
欧米思想を和訳する必要がある。
何か良い言葉は…。
おっ、仏教用語にそれっぽい言葉が!
これに訳語にしよう!
ということで「自由」という熟語が
freedomとlibertyの訳語として使われる。
「文明開化の親分」こと福沢諭吉が、
『西洋事情』という本で使ったことから、
徐々に普及していったそうです。
…ただ、ですね。
自由という日本語は
仏教的な意味から離れて、
「我がままをし放題」「放蕩」という
意味合いが強く、
良い意味で使われていなかった。
随筆の『徒然草』には
「よろづ自由にして、大方、
人に従うといふことなし」と書かれる。
万事、我がままし放題で、
人に従うことがない(困り者)の意味。
建武の新政の頃の『二条河原の落書』には
「自由出家」「自由狼藉」と書かれる。
やりたい放題の悪い奴、という意味です。
ここまでをまとめましょう。
福沢諭吉も、libertyを訳すのに
相当苦労した、と書いています。
「自由」以外にも、自主・自尊・自得・
自若・自主宰・任意・寛容・従容…など、
和訳に悩んだ、とのこと。
日本に無い概念だから、悩んだんです。
もう少し付け加えます。
欧米でliberty「自由」と言えば、
権力者を縛る「法律」、
つまりルールと必ずセット。
戦いの結果「自由」を得た!
だからこそ、それが覆らないよう、
法律で保障する。
しかし、日本では違う。
もちろん欧米直輸入の法律の世界では
「自由とは何か?」「自由権とは?」
という法律論が吟味されますが、
世間一般には理解されづらい。
そもそもlibertyが借り物の概念ですから。
ゆえに自由に行動する人は、
「我がまま」「自分勝手」「自己中心的」
と批判されがち。
「自由な状態を批判する」日本語は、
とても多いですよね?
この際に、自由を縛るのは何か?
…主に「他人の感情」です。
日本では不特定多数の感情により
自由が縛られがちなのです。
「我がまま、自分勝手、自己中心だ!」と、
「自由」であることが
他人や組織の感情によって批判される。
法律論でロジカルに批判されるわけではなく…。
おそらくその根底には、
そんな同調圧力、出る杭は打つの
精神が働きがち、なのではないか?
libertyを歴史的に勝ち取ってきた欧米。
libertyが輸入されて上から与えられた日本。
受け止め方が違う。
では、freedomは?
これも日本では「押し殺される」ケースが
(まだ)多いように思われます。
内心に湧き起こる自由。なのに、
それをフリーダムには表現しづらい…。
その際によく言われるのは、
というロジック。
その通りです。ごもっともです。
誰かの自由と誰かの自由はぶつかりがち。
本当に何でもやりたい放題となったら
犯罪、損害、迷惑が生じやすい。
だから、それを押さえるべき…。
あまりに酷い「自由」は制限されるべき。
しかしですね、同調圧力が強い日本では、
ささやかに「自由にふるまう」だけでも
誰かに「心理的損害を与える」ケースが
非常に多いように思われる。
freedomを発揮するハードルが高い。
少しfreedomに活動しただけで、
「あいつは変わり者」とレッテルを貼られ、
妬み、そねみ、出る杭を打つ、
そんな行動を取る人が出がち…!
そう考えた時、
freedomとlibertyの精神は、まだ
(この令和時代ですら)日本では
理解されていない…と思うのです。
繰り返しになりますが、
「自由」という日本語自体が
借り物ですから。
ただ最近は、風穴が開きつつある。
SNSのフラットな空間では、
比較的「自由」に過ごせます。
特にLinkedInでは…。
(もちろんSNSによっては
「言葉狩り」「炎上」も起きがちですが)
最後にまとめます。
本記事では「自由」という
日本語について考えてみました。
砂押 美穂さんは、LinkedIn文学部で
「哲学分科会」が発足させ、第1回は
「自由」がテーマ。
興味のある方はアクセスしてみては
いかがでしょう?(最後は宣伝でした)
※こちらの記事もご参考まで↓
※砂押さんの
【哲学分科会を立ち上げてみます!!】
の記事はこちら。
第1回目は「自由」をテーマに考える、
とのことです↓
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