【天皇の権限(威厳)を失墜させた男!後醍醐天皇】
教科書では語られない、後醍醐天皇の性格と、
彼が行ったことについて解説します。
まず高校入試では、【後醍醐天皇が建武の新政を行うも、
2年半で終了し、南北朝時代に突入】
このくらいを覚えておけば、
これではただの暗記で、覚える気になりませんよね。
なぜ後醍醐天皇が幕府に戦いを挑んだのか、
なぜ後醍醐天皇の成したかった政治はたった2年ほどで終了したのか、
そこには必ず【背景】があります。
その【背景】を押さえ、より効率的な勉強をしましょう。
【野望のために幕府を倒す】
後醍醐天皇は【天皇中心の政治体制を作りたい】という野望を持っていました。
しかし、その野望を叶えるには邪魔な存在がありました。
それは、鎌倉幕府です。
幕府が出来る前は天皇が政治を行っていました。
なので、後醍醐天皇は【天皇が政治を行う】という考えを強く持っていました。
ですが、現状は政治だけでなく、皇位継承にまで幕府が口をはさむ状況であり、
幕府が朝廷を裏から操っていると言ってもいい状況でした。
(朝廷は後嵯峨上皇が後継者を決めずに崩御(亡くなった)のが原因で【大覚寺統】と【持明院統】という2つの皇室の系統に分かれており、
交互に皇位を継承する状態になっていた。幕府はその決定権を持っていました。)
そんな状況では、天皇中心の政治をすることは難しいですよね。
なので、後醍醐天皇は、自分の野望を叶えるために幕府を倒そうとしました。
【2度の敗北から執念の復活!】
後醍醐天皇は野望のために幕府を倒そうとしましたが、実は2回ほど失敗しています。
その結果、後醍醐天皇は隠岐に島流しになりました。
ですが、幕府側にいた御家人、足利尊氏、新田義貞を味方につけ、幕府を倒し。
楠木正成の働きにより、京都に戻ってきました。
彼らの活躍により、鎌倉幕府を倒すことに成功し、
いよいよ天皇中心の政治体制へ動き出す。
【グダグダな政治体制】
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、理想の政治を行える状況になりました。
その際に後醍醐天皇は今までの慣習などを無視して「俺が政治の全てを決める!」というスタンスを持って政治運営をスタートしました。
このような考えのもとでスタートしましたが、この状況は2年半で崩壊します。
その理由は大きく2つだと思います。
1つ目は恩賞(給与)についてです。
当時の恩賞(給与)は土地を与えることです。
この土地は敵から奪った土地を与えるのですが、
実は当時「敵」と「味方」の判別がすごく難しかったのです。
当時、多くの御家人は勝てそうな方に味方しました。
しかも、「ヤバい。負ける。。」と思ったら「相手に寝返ります(笑)」という人が多くいました。
そんな状況だったので、恩賞が与えられたのも一部の御家人(足利尊氏や新田義貞)のみでした。
今の会社で言うと、給与が貰えたのは役員のみ(今の会社で言うと課長や部長)で他の社員には給与が払われないような状況です。
そんな状況なので、御家人たちは「なんであいつらだけ給与もらえてるの?」と感じ、天皇に不満を抱くことになりました。
2つ目は建武の公家中心の政治体制です。
鎌倉幕府を直接倒したのは足利尊氏などの御家人たちです。
足利尊氏は征夷大将軍を望んでいましたが、後醍醐天皇は「幕府を復活の可能性があるからムリ!」と判断し、
幕府を倒すことに大活躍した御家人を要職につけようとしませんでした。
また、足利尊氏と仲の良い御家人達も同じような扱いを受けました。
そのかわりに、幕府を倒すことに対して活躍をしていない公家の人たち(天皇と仲の良い人たち)が要職につきました。
こんなことをやられたら御家人たちは「納得ができない!」となり、不満が溜まる結果になりました。
他にも御家人の所領を巡るトラブルをうまく対処出来ず、
地方では同じ土地に何人も領主が存在するなど、メチャクチャな状況を作ってしまいました。。。。。
(それまでは鎌倉幕府が出した御成敗式目という法律に従ってトラブルを解決してきたが、
後醍醐天皇は「俺が決める!」と言い、自分の判断で全国の裁判を判決してしまいました。。。。。)
こんなことを組織のTOPがやっていたらどうなるか。。。
お分かりだと思いますが、こんなブラック組織は100%潰れます。
【野望VS野望 南北朝時代開幕!】
このような政治体制だったのであっという間に御家人たちの不満は溜まりました。
そして、鎌倉で「中先代の乱」が発生した際に、事件が起こりました。
その反乱を治める際に、足利尊氏が後醍醐天皇に「俺に征夷大将軍を任せてくれませんか?」とお願いしました。
ですが、後醍醐天皇は幕府が復活することを恐れ、これを認めませんでした。
その変わり、息子である成良親王を征夷大将軍に任じました。
これに不満を抱いた足利尊氏は、勝手に軍勢を率いて鎌倉に向かい、反乱を治めた後、後醍醐天皇に対し、戦を起こしました。
対する後醍醐天皇は新田義貞や楠木正成を向かわせました。
足利尊氏は彼らに勝利し、新しい天皇(【持明院統】の光明天皇)を即位させました。(後醍醐天皇は【大覚寺統】の天皇です。)
これにより、建武の新政は終わりを迎えました。
ですが、後醍醐天皇の野望はまだ諦めません。
後醍醐天皇は京都を追われたにも関わらず、吉野(奈良県)で、自らが正統な天皇であると宣言をし、天皇新政を行おうとしました。
この宣言により。吉野の朝廷と京都の朝廷が対立する南北朝時代へと突入することになりました。
(ちなみに足利尊氏は、その後光明天皇より征夷大将軍に任じられ、武家政権である室町幕府を成立させました。)
これにより約60年間に及ぶ、南北朝時代が始まりました。
以上です。
省略している部分もありますが、このような背景があり、建武の新政はわずか2年半で終わってしまいました。
個人的には、後醍醐天皇の野望が大きすぎたため、すぐに終わる結果になったと感じています。
歴史の出来事には必ず【背景】が存在します。その【背景】を知ることで、歴史の知識をもっと深め、自分の成長につなげていきましょう。