演奏会:真夏の「第九」
~~古い日記から~~
演奏会:真夏の「第九」
2015年7月4日
いずみホール
宇野功芳指揮
大阪交響楽団
神戸市混声合唱団
丸山晃子(ソプラノ)
八木寿子(アルト)
馬場清孝(テノール)
藤村匡人(バリトン)
ベートーベン作曲
歌劇「フィデリオ」序曲
交響曲第9番「合唱付き」
まるでモノクロームの特撮映画を見ている様だった。
第九の第1楽章は、巨体が大地をはいずり回るかの形相で、どっしりとして引きずる様に重くて進まぬテンポ、執拗に打ち付けられるリズム、音が溢れて崩壊せんばかりのハーモニー、今にも得体の知れない怪獣が現れそうな、異様に緊迫し重苦しい、しかしどこか滑稽味のある幕開けだ。
これはベートーベンの苦悩であろうか?
大地の嘆きか?
私には、最後の生き残りの怪物が放つ咆哮に思えた。
若しくは、個性的な巨匠がひしめき活躍した前世紀へのオマージュではないか。
やりたいほうだいの大芝居の内に見え隠れするのは、孤独な批評精神と、溢れ出るアイデアを試さずには済まない舞台人との、不可思議な融合と鬩ぎあいだ。
宇和島での仙台フィルの献身的な音楽を知っている耳には、大阪交響楽団はひたむきではあるけど、ちょっと雑然と聴こえる嫌いがあった。
自分の巨体を持て余してどこか生きづらそうな怪獣、第1楽章でそんな印象を受けたのは、そのためかも知れない。
第2楽章。
こんどは鞍馬天狗でも出て来そうな痛快な乱舞。突撃の音楽だ。
ちゃんばらみたいと例えたら失礼かも知れないけど、ちゃんばらという、ある種の様式美に漂うリリシズムが、私は好きだ。
聴いていて心が躍る第2楽章。
重心は相変わらず低い。その中でのちゃきちゃきしたリズムの切れが心地好い。
第3楽章。
至極美しいベートーベンのうた。
第2楽章までの見得を切る、謡いの世界が拡がっていたのからは一変した。
フレーズとフレーズの流麗なる連なり、楽器の存在すら忘れさせる音色、流石に合唱音楽の様に繊細。
トロイメライという訳ではないけど、この夢うつつの世界には、いつまでも留まる事は許されない。
弦楽器に優しくしかし決然と被さる管楽器が、懐かしさに浸る心を振り切って、再び荒振る魂を呼び覚ます。
しかし、その音色さえもがどこか寂しげで後ろ髪を引かれる様に聴こえた。
最終楽章。
それまでの楽章の音楽を否定して行く冒頭、楽譜の大きな改変があった事よりも、底弦のレシタチーヴォがインテンポで疾走した事の方が印象深い。
そして歓喜の歌がいよいよ現れる場面!
聴こえるか聴こえないかの最弱音で微かに抑揚なく始められ、そのメロディーは間違いなくあの歓喜の歌なのだけれども、悲壮感すら漂っていた。
活劇はおしまいだ。
怪物にやりたいほうだいされ尽くした後の再生の歌は、か細い微かな歌から始まって、時に半信半疑に立ち止まりながらも、やがては高らかに奏でられていく。
もう、最後は誰がどう振ってもベートーベンの第九にしかならない、というところが第九という音楽の凄いところだと思う。
ソリストや合唱団は、オーケストラ以上に宇野先生の世界を具現化していたかも知れない。
年末によく聴く第九とは違い、合唱団の単なるお祭り騒ぎには終わらず、オーケストラとのバランスの良い、最後まで混沌を避けた、壮麗な祝典劇の内に幕となる。
いつ聴いてもくどい音楽だと思っていた第4楽章後半が、何ともストレートで純情な音楽に聴こえて、ベートーベンの第九ってやっぱり凄い作品なんだなぁ、普通の人間のやる事じゃないなぁ、と半ば呆れながらも、心を奪われてしまった。
フィデリオ序曲と、第九の第4楽章で座って指揮をされており、舞台を往復される足取りも少しお辛そうであったけど、出て来る音楽は信じられないくらいエネルギッシュで表現への意欲に満ちた采配。
こんな熱い第九、確かに聴いた事ありません(笑)
次は如何なる音楽世界を聴かせて貰えるのか、期待せずにはいられない!
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これが最期の舞台となりましたね。
そんな気配を聴き手には感じさせなかったけど、ご本人は覚悟していたそうですね。
改めてレコードとして聴いたらどんな印象になるのだろう?
それは、野暮だと思うから、聴いてない。
聴けなかった人の為にこそ、熱く鳴ってくれれば、それでよい。
コンサートとレコードは別物だと言われている。
全くそうだと思う。
忽ち薄れ行く想い出よりも、余程、記録の方が真実だとすら信じている。
だからこそ、暴くのは止めとこう。
人間は、必ずしも、真相だけを糧に生きてなどおらない生き物なのだから。
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